探検!日本の歴史

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旗本 阿部氏~福山藩の分家~

こんにちは、勘矢です。
今回は備後福山藩の分家旗本 阿部氏について調べたことをまとめました。
 
 

1. 旗本 阿部氏(正次系)

 阿部長門守家は、備後福山藩主 阿部正邦の五男正容からはじまり、内分五千俵を分知されました。
 阿部吉之丞家は、阿部正春の九男正長が上総佐貫藩の内分二千俵を分知されたことからはじまります。
 阿部甚三郎家は、阿部正次の三男盛次からはじまり、武蔵国内で千石を知行しました。
 阿部右門家は甚三郎家の分家で、盛次の二男正弘からはじまり、常陸国内で五百石を知行しました。
 

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旗本阿部氏(正次系)略系図
 
 

2. 旗本阿部一族

(1)旗本:阿部長門守家

初代 阿部 正容(まさかた)【1706~1774】
 備後福山藩主 阿部正邦の五男、母は中村氏。
 1715年(10)に父の遺領から蔵米五千俵を分け与えられて寄合に列しました。1774年に69歳で隠居しました。享年69。
 
阿部 正封(まさみち)【1733~1758】
 阿部正容の長男。父に先立ち没しました。享年26。
 
二代 阿部 正依(まさより)【1747~1774】
 阿部正容の二男。
 1774年に28歳で家督相続しました。1797年(51)に仰せを承り、日光門主安楽心院宮上京のときに従いました。
 妻は信濃小諸藩主 牧野康周の娘、後妻は出雲母里藩主 松平(越前)直員の娘 久姫。
 
三代 阿部 正利(まさとし)【1769~1790】
 阿部正依の二男、母は牧野康周の娘。
 1807年に39歳で家督相続しました。百人組頭、西ノ丸御小姓組頭をつとめました。
 1812年(44)に寄合より中川御番のちに火消役となりました。1818年(50)に百人組頭となり、1821年(53)に西ノ丸御小姓組番頭となり、1825年(57)に病により辞職して寄合となりました。
 妻は旗本 松平(能見)勝政の養女(松平(能見)親章の娘、勝政の妹)、後妻は旗本 花房職雍の娘。
 
四代 阿部 正溥(まさひろ)【?~1846】
 阿部正利の長男、母は松平勝政の養女。通称 靱負。
 1832年家督相続しました。1834年に寄合より火事場見廻となり、翌年に火消役となりました。1838年に先手鉄砲頭となり、1841年に再度火消役となりました。1844年に新番頭となりました。
 
五代 阿部 隼人【?~?】
 阿部正溥の子。はじめ鉄太郎。1846年に家督相続しました。
 
六代 阿部 直之丞(なおのじょう)【?~?】
 表高家 前田右近長年の子。祖父は奥高家 前田信濃守長粲。
 先代の養子となり、1858年に家督相続しました。1866年に寄合より火事場見廻となり、翌年役職廃止に付き御役御免となりました。
 
 

(2)旗本:阿部吉之丞家

初代 阿部 正長(まさなが)【1702~1753】
 阿部正春の九男、母は烏丸資吉の娘。
 1714年(13)に兄で上総佐貫藩主 阿部正鎮の所領から蔵米二千俵を分け与えられて寄合に列しました。
 1726年(25)に中奥の御小姓に列し、1746年(45)に御小姓組の番頭にうつり、1751年(50)に御書院の番頭に転じました。享年52。
 
二代 阿部 正親(まさちか)【1721~1761】
 旗本 阿部(孫十郎)正親の二男、母は稲富喜三郎直貞の娘。
 正長の婿養子となり、1753年に33歳で家督相続し、小普請となりました。翌年、御小姓組の番士に列し、1760年(40)に御使番に移りました。1761年(41)に仰せを受けて中国地方を巡見し、その帰路の途中に品川で没しました。享年41。
 妻は阿部正長の娘、後妻は神保茂映の娘。
 
三代 阿部 正保(まさやす)【1744~1818?】
 阿部正長の三男。
 義兄正親の養子となり、1761年に18歳で家督相続しました。1766年(23)に御小納戸に列し、その後、西ノ丸に移りました。1775年(32)に西ノ丸の御小姓に移り、1779年(36)に寄合に列しました。
 1781年(38)に西ノ丸御小納戸となり、その後本丸に移りました。1791年(48)に御留守居番に移り、御先鉄砲頭にすすみ、翌年辞任しました。享年75?。
 長男正簡は本家佐貫藩の養子となり藩主となりました。
 妻は上総佐貫藩主 阿部正興の娘。
 
四代 阿部 主税【?~?】
 阿部正保の子。1818年に相続。小普請。
 
五代 阿部 正徳(せいとく)【?~?】
 阿部主税の子。吉之丞、隠岐守。
 1830年に小普請より御小納戸となり、その後西ノ丸に移りました。1833年に西ノ丸の御小姓となり、1837年に十一代将軍徳川家斉が隠居して世子家慶が将軍職を継ぐと本丸に移りました。1840年に御使番となりました。1863年に病気御役御免、隠居しました。
 
六代 阿部 継太郎(けいたろう)【?~?】
 阿部正徳の子。1863年家督相続し、小普請となりました。1863年に御小姓組に入り、翌年御小納戸となりました。
 
 

(3)旗本:阿部甚三郎家

(寛政年間までの当主)
初代 阿部 盛次(もりつぐ)【?~1645】
 阿部正次の三男、母は佐原義成の娘。
 1633年に父の所領から廩米千俵を分け与えられました。三代将軍徳川家光に仕えて御小姓をつとめ、その後務めを辞しました。
 
二代 阿部 正吉(まさよし)【?~1673】
 阿部盛次の長男。
 1665年、故あって御勘気を蒙り、その後赦されて蔵米千俵を賜りました。1667年に御書院番に列し、その後番を辞して小普請となりました。
 
三代 阿部 正美(まさみ)【?~1705】
 阿部正吉の長男。
 1673年に家督相続しました。1688年に御書院番に列し、その後進物役をつとめました。1697年に蔵米を改められ、武蔵国内などで千石を賜りました。
 
四代 阿部 正敏(まさとし)【1688~1747】
 阿部正美の長男。
 1705年に18歳で家督相続しました。1717年(30)に御書院番となり、1744年(57)に組頭に進み、翌年に辞職して寄合となりました。享年60。
 妻は丹後宮津藩 奥平家家臣 大久保左七の娘。
 
五代 阿部 正輔(まさすけ)【1712~1770】
 阿部正敏の長男、母は大久保左七の娘。
 1739年(28)に御小姓組の番士となり、1747年に36歳で家督相続しました。1767年(56)に辞職し、翌年に57歳で隠居しました。享年59。
 妻は上総佐貫藩阿部家家臣相澤惣佐衛門の娘。
 
六代 阿部 正雄(まさかつ)【1743~?】
 阿部正輔の長男。
 1768年に26歳で家督相続し、西ノ丸御書院番に徹し、1790年(48)に本丸に移り、1796年(54)に若君(徳川家慶)に附属となりました。
 妻は旗本 飯田満盈の娘。
 
阿部 正易(まさやす)【?~?】
 阿部正雄の長男、母は飯田満盈の娘。妻は旗本 山岡景満の養女(上総飯野藩保科家家臣 大出広香の娘)。
 
阿部正直(まさなお)【?~?】
 阿部正易の長男、母は山岡景満の養女。
 
〇幕末頃の当主
阿部 甚三郎(じんさぶろう)【?~?】
 父は阿部惣三郎、祖父は阿部主税。1850年に小普請より中奥番となりました。
 

(4)旗本:阿部右門家

 
(寛政年間までの当主)
初代 阿部 正弘(まさひろ)【?~1714】 
 阿部盛次の二男。
 1665年、兄正吉と同じく故あって御勘気を蒙り、その後赦されて蔵米五百俵を賜りました。1667年に御小姓組の番士に列し、1690年に組頭に進みました。
 1692年に辞職した寄合に列し、1697年に蔵米から知行に改められ、常陸国内で五百石を賜りました。1704に隠居し、隠居料として蔵米三百俵を賜りました。
 妻は紀伊家家臣 小島市右衛門の娘。
 
二代 阿部 正親(まさちか)【1666~1730】
 阿部正弘の長男、母は小島市右衛門の娘。通称孫十郎。
 1691年(26)に御小姓組に列し、1701年(36)に桐間番に移りましたが、故あって小普請に貶され、出仕をはばかり、のち赦されました。
 1704年(39)に御小姓組の番士となり、同年に家督相続しました。1724年に59歳で隠居しました。享年65。
 妻は旗本 稲富直貞の娘。
 
三代 阿部 正民(まさたみ)【1702~1757】
 阿部正親の長男、母は稲富直貞の娘。
 1728年に27歳で家督相続しました。1737年(36)に御小姓組に列しました。享年56。
 妻は旗本 能勢頼富の養女(旗本藤懸永俊の五男 永正の娘:頼富の妹)、後妻は旗本津田信成の娘。
 
四代 阿部 正明(まさあきら)【1723~1798】
 阿部正民の長男、母は能勢頼富の養女。
 1757年に35歳で家督相続しました。翌年、御書院番に列し、1787年(65)に辞職し、翌年に66歳で隠居しました。享年76。
 妻は旗本 松平(大給)近郷の娘。
 
阿部 正岑(まさみね)【?~?】
 旗本 平塚為政の四男、母は本多貞就の娘。寛政譜の平塚氏の系図では正峯と記載されている。
 正明の婿養子となるも、父に先立って没しました。
 妻は阿部正明の娘。
 
五代 阿部 正親(まさちか)【1765~?】
 阿部正岑の長男、母は阿部正明の娘。
 1788年に24歳で祖父の跡を継ぎました。翌年に西ノ丸御書院番に列し、翌年から本丸に移りました。1796年(32)若君(徳川家慶)に附属となりました。
 妻は旗本青木長国の娘。
 
〇寛政期以降の当主(寛政譜以降 旗本百科事典より)
阿部 大助【?~?】
 阿部正親の子。小普請。
 
阿部 大膳【?~?】
 阿部大助の子。1837年に家督相続し、小普請となりました。1839年に西ノ丸御小姓組となり、1856年に御使番となりました。
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川一族大全(廣済堂出版
 家紋・旗本八万騎 高橋賢一著(秋田書店
 続徳川実紀 第2篇第3篇第4篇(経済雑誌社 / 国立国会図書館デジタルコレクション)
 寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻(東洋書林
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。