こんにちは、勘矢です。
今回は上総佐貫藩 阿部家について調べたことをまとめました。
1. 上総佐貫藩 阿部家
阿部重次ははじめ三浦重成の養子となっており、その後宗家を継いだため、二男正春が三浦家を相続しました。1651年に父の遺領から新墾田一万六千石を分与され、大多喜新田藩主となりました。1659年に兄で武蔵岩槻藩主 阿部定高が臨終の際に嫡男正邦が幼少であったために正春に家督を譲りたいと遺言したので、岩槻藩を相続しました。1671年に正邦が14歳になったので宗家の家督を譲り渡し、正春は再別家し上総大多喜(千葉県大多喜町)一万六千石となりました。
1702年に三河刈谷(愛知県刈谷市)に移り、1710年に子の正鎮が上総佐貫(千葉県富津市)に移りました。以降の多くの藩主は、大坂加番や江戸城諸門の門番などをつとめました。最後の藩主正恒のときに廃藩置県を迎えました。
2. 上総佐貫藩主
初代 阿部 正春(まさはる)【1637~1716】
1651年(15)に父の遺領から新墾田一万六千石を分与され、大多喜新田藩主となりました。1659年(23)に宗家世子正邦が幼少のため武蔵岩槻藩を相続し、1671年(35)に宗家の家督を正邦に譲り渡し、正春は再別家して上総大多喜藩主一万六千石となりました。
正室は公家 烏丸資吉の娘。
二代 阿部 正鎮(まさたね)【1699~1751】
阿部正春の六男、母は烏丸資吉の娘。
1714年(16)に弟正長に廩米二千俵を分与しました。1724年(26)に大坂加番となりました。享年53。
三代 阿部 正興(まさおき)【1733~1764】
備後福山藩主 阿部正福の六男、母は側室 福地氏。正福は、初代正春の甥正邦の子。
正鎮の婿養子となり、1751年に19歳で上総佐貫藩を相続しました。享年32。
※生年は1734年ともいう。
四代 阿部 正賀(まさよし)【1746~1780】
阿部正鎮の四男。
1760年(15)に正興の養子となり、1764年に19歳で上総佐貫藩を相続しました。翌年、大坂加番をつとめました。享年35。
五代 阿部 正実(まさざね)【1764~1831】
武蔵忍藩主 阿部正允の五男。
六代 阿部 正簡(まさひろ)【1772~1825】
旗本 阿部正保の長男。
正実の養子となり、1792年に21歳で上総佐貫藩を相続しました。1796年(25)に藩校誠道館を創設しました。1808年(37)から2年、大坂加番をつとめました。
七代 阿部 正暠(まさあき)【1806~1853】
阿部正簡の三男。
八代 阿部 正身(まさちか)【1818~1868】
石見津和野藩主 亀井玆尚の二男。玆尚の妻は忍藩主 阿部正由の養女で、正由と先代正暠ははとこの関係。
1835年(18)に正暠の養子となり、1836年に19歳で上総佐貫藩を相続しました。1842年(25)に大坪山に砲台を築造して藩兵を常駐させました。また、日光祭礼奉行や江戸城田安門などの番役をつとめました。
九代 阿部 正桓(まさつね)【1839~1899】
阿部正身の長男。
1854年に16歳で上総佐貫藩を相続しました。1861年(23)に大坂加番をつとめました。1868年(30)の戊辰戦争では、旧幕府の脱兵から援兵の要請があり、佐幕の立場を取って兵を派遣しました。しかし、つぎつぎに敗北し、最終的に佐貫城を明け渡すことになり、父正身とともに謹慎を命じられました。その後、謹慎は解かれ、1869年(31)に版籍奉還して佐貫藩知事となり、1871年(33)に廃藩置県を迎えました。享年61。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。