こんにちは、勘矢です。
1. 川路氏
幕末の聖謨は、豊後の日田代官所の官史だった内藤家から養子に入り、勘定奉行、外国奉行などを歴任し、外交官領として高い評価を得ました。聖謨ははじめ九十俵三人扶持で、のち五百石。隠居後に外国奉行なったときは、二千石(切米三百石に千七百俵の足し高)。
聖謨の跡は孫の太郎が相続しました。下野国都賀郡内で三百石余。
明治時代の詩人川路柳虹は聖謨の曾孫にあたる。
川路 聖謨(かわじ としあきら)【1801~1868】
1821年(21)に支配勘定 評定所留役助、1823年(23)に御目見以上となり、寺社奉行吟味物調役となりました。1835年(35)に寺社奉行 脇坂安董を補佐して但馬出石藩仙石家のお家騒動取調べに従い、名声を博して老中大久保忠真の刮目するところとなり、勘定吟味役に抜擢されました。
1840年(40)に佐渡奉行となり二百俵に加増され、 翌年に小普請奉行、1843年(43)に普請奉行となりました。聖謨を重用していた老中水野忠邦が失脚すると、1846年(46)に奈良奉行に左遷され、1851年(51)に大坂町奉行となりました。
1852年(52)に勘定奉行(公事方)となり五百石に加増され、海防掛を兼任し、1853年(53)に勝手方に移りました。同年にペリーが来航すると、6月に若年寄の本多忠徳の海岸巡視の同行を命じられました。さらにプチャーチンが長崎に来航すると10月に大目付筒井政憲らと共に長崎に向かい、ロシア使節を応接し、翌1854年(54)に下田で談判を行い、大目付 筒井政憲とともに日露和親条約に調印をしました。(国立国会図書館デジタルコレクションに「日露和親条約写」があり、川路左衛門尉の名を確認できる。)
1858年(58)に老中堀田正睦が条約勅許を得るために上京するときに随行を命じられました。安政の大獄により西ノ丸御留守居に左遷され、1859年(59)に御役御免となり、隠居・差控を命ぜられました。家督は孫の太郎が相続しました。
1863年(63)に外国奉行に起用されるも五ヶ月足らずで辞職しました。1866年(66)以降は中風発作で体の自由を失いました。1868年3月15日、江戸城総攻撃が予定された日に割腹ののちピストルで自害しました。享年68。
妻は大工頭大越喬久の二女 さと(高子)【1804~1884】。「さと」以前に三度の結婚をし、死別もしくは離縁している。
川路 太郎(かわじ たろう)【1844~1927】
父は川路弥吉(彰常)、川路聖謨の孫。寛堂。
1866年(23)に歩兵頭並(千石高)となりました。同年、幕府の英国留学生「取締」を拝命し、1868年(25)に帰国しました。
1871年(28)三等書記官として岩倉使節団に随行しました。その後、1885年(42)に英学塾を開塾、1903年(60)に淡路高等女学校初代校長、1914年(70)に神戸の松陰高等女学校副校長となりました。享年84。
2. 平岡氏
平岡文次郎【?~1853】は代官を勤めたのち、裏門切手番之頭となり、永々御目見以上となりました。
平岡 円四郎【1822~1864】
槍奉行などをつとめた岡本忠次郎正成の四男。諱は方中(けたち)。
1838年(17)に平岡文次郎の養子となりました。1841年(20)に学問所寄宿中に頭取を命じられるが、1843年(22)武術修行のため学問所を退きました。
実父忠次郎と親交があった川路聖謨が円四郎の才能を見抜き、水戸の藤田東湖らに円四郎の人となりを説いたといわれ、一橋家の当主となった慶喜の近臣を求めていた徳川斉昭に東湖が進言して、1853年(32)に一橋家の雇小姓となり、百俵十人扶持を賜りました。
1854年(33)に家督相続しました。十三代将軍 徳川家定の継嗣問題では、越前藩士の橋本左内らと謀って慶喜の擁立運動を展開しましたが、安政の大獄で罰せられ、1858年(37)に幕府小十人組へと左遷され、慶喜の隠居・謹慎と同時に小普請入差控を命じられました。翌年に甲府勝手小普請となりました。
円四郎の実家岡本家は蔵米百俵で、祖父の政苗【1732~1793】は御先手与力のちに御勘定となりました。父正成【1767~1850】は清水家の目付などを経て御勘定となりました。1842年に勘定奉行勝手方となり、五百石に加増されました。その後、鎗奉行となりました。
参考文献:
寛政譜以降 旗本百科事典 第2巻、第4巻(東洋書林)
日本名字家系事典(東京堂出版)
日本人名大辞典(講談社)
国立歴史民俗博物館 旧高旧領取調帳データベース
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