探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

蜂須賀家の婚姻関係

こんにちは、勘矢です。
今日は、前回書いた蜂須賀家の婚姻関係についてまとめました。
 
前回:阿波の殿様 蜂須賀氏
 
 

1. 戦国期-正勝・家政-

 正勝の嫡男家政は、生駒家長の娘を正室に迎えています。家政の「家」の字は家長の一字をもらったものか?家政の義父生駒家長の妹は織田信長の側室吉乃で、織田信忠・信雄・徳姫の三子を産みました。徳姫は徳川家康の嫡男信康に嫁ぎ、2女を儲けました。登久姫は小笠原秀政に嫁ぎ、その娘の万姫は曽祖父徳川家康の養女となり、関ヶ原の戦いの半年ぐらい前に、曽祖母吉乃の姪の息子蜂須賀至鎮に嫁ぎました。この縁があり、至鎮は関ヶ原の戦いで東軍につきました。
 徳川家康はひ孫を養女に迎えて嫁がせている一方、この年の秋に九男義直が生まれています。万姫は大坂の陣の3年前に忠英を産んでいます。
 正勝の娘イトは、豊臣家の家臣黒田如水の息子長政に嫁ぎましたが、関ヶ原の戦い前に離縁となりました。その後、長政は家康の養女栄姫を迎えました。
 正勝の子女は、織田・豊臣に関係する家との婚姻関係を結んでいました。
 
 戦国期から江戸前期までの蜂須賀家の婚姻関係をまとめました。兄弟の順は順番どおりではありません。
 赤は蜂須賀家、青は徳川家、緑は小笠原家、黒はその他の家を示します。
 

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蜂須賀家の婚姻関係ー戦国~江戸前期ー
 

2. 江戸前期-至鎮~綱矩-

 蜂須賀家は至鎮、忠英、光隆の3代にわたり小笠原家出身の娘を正室に迎えました。万姫は将軍家の養女として至鎮に嫁ぎました。万姫の姪繁姫は従兄弟の忠英に嫁ぎました。繁姫の両親は信康の孫同士です。繁姫の姪金姫は従兄弟の光隆に嫁ぎました。忠英以降の蜂須賀家の子孫は、母方をたどると織田信長徳川家康という戦国三英傑の2人につながります。
 4代綱通は播磨姫路藩主の榊原政房の娘松姫を正室に迎えました。しかし、綱通は早くに亡くなったため、松姫は尾張藩の分家美濃高須藩の松平義行と再婚しました。政房は徳川四天王榊原康政の子孫です。ここまでは譜代大名から正室を迎えていました。
 5代綱矩は分家からの養子で正室は家臣から迎えました。
 

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徳島城本丸跡の案内板
 

3. 江戸中期-宗員~重喜-

 江戸中期の蜂須賀家の婚姻関係をまとめました。兄弟の順は順番どおりではありません。
 赤は蜂須賀家、緑は小笠原家、青は池田家、黄色は徳川家、黒はその他の家を示します。
 

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蜂須賀家の婚姻関係ー江戸中期ー
 
 5代綱矩の嫡子吉武は因幡鳥取藩主 池田綱清の娘豊を正室に迎えました。藩祖池田忠雄の生母は家康の二女督姫です。
 6代宗員は、結城秀康の子孫の越前松平一門のひとつ美作津山藩主 松平宣富の娘を正室に迎えました。津山藩の家系は秀康の長男忠直にはじまります。忠直が改易となると息子の光長は越前福井から越後高田に転封となります。その後、越後騒動により改易、その後許されて宣富が美作津山藩として再興しました。宣富の実父松平直矩は引越し大名といわれ生涯に7回も転封繰り返した人で、この夏に映画化される「引っ越し大名!」のお殿様です。継室として陸奥守山藩主 松平頼貞の娘を迎えました。頼貞の祖父は初代水戸藩主の徳川頼房です。
 7代宗英は正室を迎えていませんでした。はじめは奥平松平家から宗純を養子に迎えました。奥平松平家は家康の長女亀姫が奥平信昌との子、忠明からはじまります。蜂須賀家け奥平松平家の婚姻関係はありませんが、両家をさかのぼると家康の娘にあたる縁から養子に迎えられたのか?宗純が亡くなると、吉武の娘元姫を養女にし、婿養子として讃岐高松藩一門の宗鎮を迎えました。6代宗員の継室は陸奥守山藩松平家で、讃岐高松藩とは一族です。この縁から養子に迎えられたのかと推測します。
 8代宗鎮は婿養子となりましたが、男子に恵まれませんでした。先々代宗員の子重矩を養子に迎えましたが、早世しました。さらに重矩の従弟重隆を養子に迎えましたが病ということで廃嫡となりました。重隆は廃嫡から8年後に子を儲けているので、その頃には病は回復したのか?しかし、蜂須賀家の血筋は藩主家には戻りませんでした。その後、宗鎮の実弟至央を養子に迎えましたが、2か月で亡くなってしまい、また後継者を探す必要が出てきました。そして選ばれたのが、佐竹義道の子重喜です。
 9代重喜が佐竹家から迎えましたが、蜂須賀家と佐竹家の婚姻関係はありません。いろいろ調べてみると、3代光隆の正室の実家小笠原家を介して縁があるようです。光隆正室の姉妹が出羽亀田藩の岩城景隆に嫁いでいます。岩城家は江戸時代の初期に佐竹家から養子が入っています。景隆のはとこが佐竹義長でその孫が蜂須賀重喜となります。その正室に選ばれたのが、筑後柳川藩の立花貞俶の娘傅姫です。こちらも蜂須賀家とは遠縁の関係になるようです。4代綱通の正室は榊原政房の娘で、政房の正室備前岡山藩の池田家から迎えています。その正室の姪が立花家に嫁ぎ、その孫娘が傅姫となります。
 

4. 江戸後期-治昭~茂韶-

 江戸後期の蜂須賀家の婚姻関係をまとめました。兄弟の順は順番どおりではありません。
 赤は蜂須賀家、緑は鷹司家、黒は徳川家を示します。
 

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蜂須賀家の婚姻関係ー江戸後期ー
 11代治昭は近江彦根藩主の井伊直幸の娘を正室に迎えました。12代斉昌は公家で五摂家のひとつ鷹司家から正室を迎えました。重喜の娘が鷹司政煕に嫁ぎ、その娘季姫が斉昌の正室となりました。
 13代斉裕は11代将軍家斉の子で、7歳で斉昌の養子となりました。家斉の男子は御三家・御三卿越前松平家などの家康の子孫の家に養子入りさせていて、外様大名に養子に入ったのは斉裕と斉衆(因幡鳥取藩)のみです。徳川・松平一門に適当な養子先がないので、準一門的な家を選んだ可能性が考えられると思います。因幡鳥取藩は家康の二女督姫の息子の子孫となります。蜂須賀家と徳川一族とは、初代至鎮が家康の養女を迎え、8代宗鎮・9代至央と水戸藩分家の高松藩一門から養子を迎えていることが、蜂須賀家を選んだ理由かもしれません。また、斉裕の姉峯姫が水戸藩徳川斉脩に嫁ぎその姉妹が鷹司政通に嫁いでいます。政通の姉妹が蜂須賀家に嫁いでいるので、このようなルートから養子の話が進んだ可能性はあるのではないでしょうか。また、斉裕は鷹司政通の娘愛姫を正室に迎えているのも蜂須賀家との縁があるからだと考えられます。
 14代茂韶は、蜂須賀家一門の蜂須賀隆芳の娘斐を正室に迎えました。その後離縁し、水戸徳川家から継室を迎えました。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 徳島藩士譜 中巻・下巻(宮本武史編・非売品:東京都立図書館蔵書)
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 戦国武将 データファイル(DeAGOSTINI)
 
 
それでは、今⽇はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。