こんにちは、勘矢です。
今回は山口氏と大内氏について調べたことをまとめました。
1.大内氏
まずは、山口氏の先祖大内氏について。大内氏は、周防国(山口県)に拠点を置いた守護・戦国大名で、百済の聖明王の子琳聖太子の子孫を称した。明徳の乱の後に勢力を拡大するが、応永の乱を起こして勢力が一時衰えた。応仁の乱では山名宗全率いる西軍に加わり、主力として戦った。義興のときに足利義稙を再度将軍職につけて管領代となり、10年近く在京していた。義隆は最大7か国の守護職を得ていたが、出雲国(島根県)の尼子氏の討伐に敗戦すると自ら前線に出ることがなくなり、文化的なことに傾倒していった。その後、武断派の重臣陶晴賢による謀反で義隆を自刃に追い込み、義長を当主に立てるも毛利元就によって滅ぼされた。
大内弘世(ひろよ)【?~1380】
大内義弘(よしひろ)【1356~1399】
大内弘茂(ひろしげ)【?~1401】
大内盛見(もりみ)【1377~1431】
大内持盛(もちもり)【1397~1433】
大内持世(もちよ)【1394~1441】
大内教弘(のりひろ)【1420~1465】
大内政弘(まさひろ)【1446~1495】
大内義興(よしおき)【1477~1528】
大内義隆(よしたか)【1507~1551】
大内義房(よしふさ)【1524~1543】
公家の一条房家の四男で、叔父大内義隆の養子となった。別名晴持。出雲攻めで退却するときに船が転覆し溺死した。享年20。
大内義尊(よしたか)【1545~1551】
義隆の子。陶晴賢の謀反により殺された。享年7。
大内義長(よしなが)【1540~1557】
大内輝弘(てるひろ)【?~1569】
義隆の従弟。大友宗麟の庇護を受けて、大内家の再興はかるも毛利氏に敗れて自刃した。
2.山口氏
大内一族の大内任世が尾張国愛智郡星崎に移り住み、その子盛幸が故郷の地名をとって山口と称したことにはじまる。織田家のちに徳川家に仕えて大名となり、一時蟄居となった期間があったが、のちに許されて大名として復帰し、常陸牛久藩主として廃藩置県まで続いた。
(1)戦国期
大内 任世(にんせい)【?~?】
大内教幸の子。尾張国愛智郡星崎に移り住んだ。
山口 盛幸(もりゆき)【?~?】
任世の子。故郷の地名をとって山口と称した。
山口 盛重(もりしげ)【?~?】
盛幸の子。
山口 盛政(もりまさ)【1520~1580】
盛重の子。織田信秀に仕えた。享年61。
山口 重俊(しげとし)【1524~1548】
盛重の子。討死。享年25。
山口 重勝(しげかつ)【1547~1595】
重俊の子。享年49。
山口 重政(しげまさ)【1564~1635】
盛政の子、母は岡部正房の娘。織田信長の家臣佐久間正勝に仕えた。小牧長久手の戦いでは織田信雄に従った。1586年(23歳)に従兄の重勝の養嗣子となり星崎城一万石を相続するが、主君信雄が改易となったため、これに従った。その後、徳川秀忠の家臣となり上総国内で五千石を与えられ、関ケ原の戦い後に常陸国内で五千石を加増され、一万石の大名となった。(これ以降は次項牛久藩主を参照)
山口 重克(しげかつ)【1580~1615】
山口 勝弘(かつひろ)【?~?】
(2)歴代牛久藩主
初代:山口 重政(しげまさ)【1564~1635】
1601年(38歳)に一万石の大名となり、1611年(48歳)に五千石を加増されて一万五千石となった。1613年(50歳)に嫡男重信の妻が大久保忠隣の養女であったことから、忠隣の失脚に巻き込まれて改易となり、武蔵国越生の龍隠寺に蟄居となった。1628年(65歳)に赦されて、翌年に遠江・常陸国内で一万五千石を与えられて、ふたたび大名になった。享年72。正室は小坂雄吉の娘。
2代:山口 弘隆(ひろたか)【1603~1677】
山口重政の四男、母は小坂雄吉の娘。1635年に33歳で相続した。弟重恒に五千石を分知し、一万石となった。駿府加番、水口城番、大坂加番などをつとめた。1669年(67歳)に牛久に陣屋を築いた。享年75。正室は信濃高島藩主 諏訪忠恒の娘。
3代:山口 重貞(しげさだ)【1641~1698】
山口弘隆の長男、母は諏訪忠恒の娘。1677年に37歳で相続した。水口城番、大坂加番などを度々つとめた。享年58。正室は下総古河藩主 土井利隆の娘。
4代:山口 弘豊(ひろとよ)【1684~1755】
山口重治の子、母は谷氏。伯父重貞の養子となり、1698年に15歳で相続した。1731年に48歳で隠居した。大坂加番、大番頭などをつとめた。享年72。正室は越後糸魚川藩主 松平直堅の娘、継室は旗本 松平光正の娘。
5代:山口 弘長(ひろなが)【1707~1768】
和泉大庭寺藩主 渡辺基綱の三男。1729年(23歳)に弘豊の養子となり、1731年に25歳で相続した。大坂加番、大坂定番、大番頭などをつとめた。享年62。正室は山口弘豊の娘、継室は播磨小野藩主 一柳末昆の娘。
6代:山口 弘道(ひろみち)【1740~1783】
山口弘豊の六男、母は水上氏。1768年に29歳で相続した。享年44。正室は播磨小野藩主 一柳末栄の娘。
7代:山口 弘務(ひろちか)【1763~1787】
8代:山口 弘致(ひろむね)【1781~1829】
山口弘道の二男、母は鈴木氏。1787年に7歳で相続した。大坂加番、大番頭、大坂定番などをつとめた。享年49。正室は陸奥泉藩主 本多忠誠の養女(本多忠雄の娘)曽根のちに離縁、継室は京極高備の娘悛(悦子)。
9代:山口 弘封(ひろくに)【1808~1869】
10代:山口 弘毅(ひろたか)【1810~1849】
11代:山口 弘敞(ひろあきら)【1812~1862】
山口弘致の四男。1849年に38歳で相続した。享年51。正室は伊勢神戸藩主 本多忠升娘 源。
12代:山口 弘達(ひろよし)【1860~1932】
山口弘敞の長男、母は本多忠升の娘。1862年に3歳で相続した。1869年に10歳に知藩事となり、1871年に12歳で廃藩置県を迎えた。享年73。正室は三河刈谷藩主 土井利善の娘谷子、継室は丹後宮津藩主 本庄宗武の娘。
(3)旗本
山口 重恒(しげつね)【1608~1659】
山口重政五男、母は小坂雄吉の娘。1630年(23歳)に下総国で千石を賜った。1635年(28歳)のとき、父の遺領のうち五千石を与えられ、先の千石は幕府に収められた。享年52。妻は信濃長沼藩主 佐久間勝之の娘。
山口 重直(しげなお)【1634~1675】
山口重恒長男、母は佐久間勝之の娘。1659年に26歳で相続した。享年42。妻は摂津尼崎藩主 青山幸成の娘。後妻は下総生実藩主 森川重政の娘。
山口 重良(しげよし)【1665~1679】
山口重直長男。1675年に11歳で相続した。1679年、嗣子なくして絶家となった。享年15。
小坂 重直(しげとき)【?~?】
山口重恒二男、母は佐久間勝之の娘。小坂を称す。1661年に廩米三百俵を賜った。
(4)一門
山口 重信(しげのぶ)【1590~1615】
山口 重長(しげなが)【1594~1610】
山口重政の三男、母は小坂雄吉の娘。享年17。
山口 政信(まさのぶ)【1645~1660】
山口弘隆の二男、母は諏訪忠恒の娘。享年16。
山口 重治(しげはる)【1661~1743】
山口弘隆の三男、母は村上氏。兄重貞の養子となるが、1691年(31歳)に病により嫡子を辞退しました。享年83。
山口 重富(しげとみ)【1664~1704】
山口弘隆の四男、母は村上氏。享年41。
山口 豊隆(とよたか)【1702~1729】
山口弘豊長男、母は松平直堅の娘。父に先立つ。享年28。正室は旗本 戸田光輝の娘。弘豊継室の姪にあたる。
山口 弘弥
山口弘長の子、母は祖母井氏。病弱のため嫡子になれなかった。
山口 弘倉(ひろくら)【1733~1768】
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。