探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

牛久藩主 山口氏~西国の雄 大内氏の末裔~

こんにちは、勘矢です。
今回は山口氏と大内氏について調べたことをまとめました。
 
 

1.大内氏

 まずは、山口氏の先祖大内氏について。大内氏は、周防国山口県)に拠点を置いた守護・戦国大名で、百済聖明王の子琳聖太子の子孫を称した。明徳の乱の後に勢力を拡大するが、応永の乱を起こして勢力が一時衰えた。応仁の乱では山名宗全率いる西軍に加わり、主力として戦った。義興のときに足利義稙を再度将軍職につけて管領代となり、10年近く在京していた。義隆は最大7か国の守護職を得ていたが、出雲国島根県)の尼子氏の討伐に敗戦すると自ら前線に出ることがなくなり、文化的なことに傾倒していった。その後、武断派重臣陶晴賢による謀反で義隆を自刃に追い込み、義長を当主に立てるも毛利元就によって滅ぼされた。
 

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大内館跡
大内弘世(ひろよ)【?~1380】
 室町時代はじめ、観応の擾乱足利尊氏に対抗する足利直冬(尊氏の子で、尊氏の弟直義の養子)に味方していたが、のちに幕府と和解して周防・長門・石見の守護となり、本拠を山口においた。
 
大内義弘(よしひろ)【1356~1399】
 弘世の子。1391年(36歳)に明徳の乱で戦功を立て、和泉・紀伊守護職を得た。しかしのちに幕府に反旗を翻し、応永の乱を起こして堺で討死にした。享年44。
 
大内弘茂(ひろしげ)【?~1401】
 弘世の子。兄の義弘にしたがって応永の乱に参戦するも降伏した。のちに許されて周防・長門の守護となるが、兄の盛見に責められて戦死した。
 
大内盛見(もりみ)【1377~1431】
 弘世の子。1401年(25歳)に弟の弘茂を討ったのち、周防・長門の守護になった。さらに豊前筑前の守護も兼ねた。少弐氏との戦いで討死にした。享年55。
 
大内持盛(もちもり)【1397~1433】
 義弘の子。1431年(35歳)に叔父盛見の死により周防・長門の守護となるが、翌年兄の持世と家督争いに敗れ、のちに戦死した。享年37。
 
大内持世(もちよ)【1394~1441】
 義弘の子。1432年(39歳)に弟持盛との家督争いに勝利し、周防・長門豊前筑前の守護となった。赤松満祐による6代将軍足利義教暗殺に巻き込まれて重傷を負い、しばらくのちに亡くなった。享年48。
 
大内教弘(のりひろ)【1420~1465】
 盛見の子とされるが、持盛の子という説がある。1441年(21歳)に周防・長門豊前筑前の守護となった。伊予に出陣中に病死した。享年46。
 
大内政弘(まさひろ)【1446~1495】
 教弘の子。周防・長門豊前筑前の守護。1467年(22歳)に応仁の乱で西軍につき、主力として戦った。享年50。
 
大内義興(よしおき)【1477~1528】
 周防・長門豊前筑前・石見の守護。前将軍足利義稙を保護し、1508年(32歳)に上洛して義稙を再度将軍位につけて、管令代と山城守護となった。享年52。
 
大内義隆(よしたか)【1507~1551】
 周防・長門・石見・安芸・筑前豊前・備後の守護。重臣陶晴賢の謀反により自刃した。享年45。
 
大内義房(よしふさ)【1524~1543】
 公家の一条房家の四男で、叔父大内義隆の養子となった。別名晴持。出雲攻めで退却するときに船が転覆し溺死した。享年20。
 
大内義尊(よしたか)【1545~1551】
 義隆の子。陶晴賢の謀反により殺された。享年7。
 
大内義長(よしなが)【1540~1557】
 大友宗麟の弟。母が義興の娘。陶晴賢に擁立されて大内家の当主となるが、晴賢が厳島の戦いに敗れた後、毛利元就に攻められ自刃した。初名晴英。享年18。
 
大内輝弘(てるひろ)【?~1569】
 義隆の従弟。大友宗麟の庇護を受けて、大内家の再興はかるも毛利氏に敗れて自刃した。
 
 

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大内氏系図

 

国宝 瑠璃光寺五重塔

 この五重塔応永の乱で敗死した大内義弘の霊を弔うために建てられた。

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瑠璃光寺


 

2.山口氏

 大内一族の大内任世が尾張国愛智郡星崎に移り住み、その子盛幸が故郷の地名をとって山口と称したことにはじまる。織田家のちに徳川家に仕えて大名となり、一時蟄居となった期間があったが、のちに許されて大名として復帰し、常陸牛久藩主として廃藩置県まで続いた。
 

(1)戦国期

大内 任世(にんせい)【?~?】
 大内教幸の子。尾張国愛智郡星崎に移り住んだ。
 
山口 盛幸(もりゆき)【?~?】
 任世の子。故郷の地名をとって山口と称した。
 
山口 盛重(もりしげ)【?~?】
 盛幸の子。
 
山口 盛政(もりまさ)【1520~1580】
 盛重の子。織田信秀に仕えた。享年61。
 
山口 重俊(しげとし)【1524~1548】
 盛重の子。討死。享年25。
 
山口 重勝(しげかつ)【1547~1595】
 重俊の子。享年49。
 
山口 重政(しげまさ)【1564~1635】
 盛政の子、母は岡部正房の娘。織田信長の家臣佐久間正勝に仕えた。小牧長久手の戦いでは織田信雄に従った。1586年(23歳)に従兄の重勝の養嗣子となり星崎城一万石を相続するが、主君信雄が改易となったため、これに従った。その後、徳川秀忠の家臣となり上総国内で五千石を与えられ、関ケ原の戦い後に常陸国内で五千石を加増され、一万石の大名となった。(これ以降は次項牛久藩主を参照)
 
山口 重克(しげかつ)【1580~1615】
 盛政の子。徳川秀忠に近侍し、大坂夏の陣で戦死した。享年36。
 
山口 勝弘(かつひろ)【?~?】
 重克の子。徳川秀忠に仕えて300石を賜う。のち病で水野分長の領地(三河新城)に居住した。これは姉が分長の妻となっているためと考えられる。
 

(2)歴代牛久藩主

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山口氏略系図
 
初代:山口 重政(しげまさ)【1564~1635】
 1601年(38歳)に一万石の大名となり、1611年(48歳)に五千石を加増されて一万五千石となった。1613年(50歳)に嫡男重信の妻が大久保忠隣の養女であったことから、忠隣の失脚に巻き込まれて改易となり、武蔵国越生の龍隠寺に蟄居となった。1628年(65歳)に赦されて、翌年に遠江常陸国内で一万五千石を与えられて、ふたたび大名になった。享年72。正室は小坂雄吉の娘。
 
2代:山口 弘隆(ひろたか)【1603~1677】
 山口重政の四男、母は小坂雄吉の娘。1635年に33歳で相続した。弟重恒に五千石を分知し、一万石となった。駿府加番、水口城番、大坂加番などをつとめた。1669年(67歳)に牛久に陣屋を築いた。享年75。正室信濃高島藩主 諏訪忠恒の娘。
 
3代:山口 重貞(しげさだ)【1641~1698】
 山口弘隆の長男、母は諏訪忠恒の娘。1677年に37歳で相続した。水口城番、大坂加番などを度々つとめた。享年58。正室は下総古河藩主 土井利隆の娘。
 
4代:山口 弘豊(ひろとよ)【1684~1755】
 山口重治の子、母は谷氏。伯父重貞の養子となり、1698年に15歳で相続した。1731年に48歳で隠居した。大坂加番、大番頭などをつとめた。享年72。正室は越後糸魚川藩主 松平直堅の娘、継室は旗本 松平光正の娘。
 
5代:山口 弘長(ひろなが)【1707~1768】
 和泉大庭寺藩主 渡辺基綱の三男。1729年(23歳)に弘豊の養子となり、1731年に25歳で相続した。大坂加番、大坂定番、大番頭などをつとめた。享年62。正室は山口弘豊の娘、継室は播磨小野藩主 一柳末昆の娘。
 
6代:山口 弘道(ひろみち)【1740~1783】
 山口弘豊の六男、母は水上氏。1768年に29歳で相続した。享年44。正室は播磨小野藩主 一柳末栄の娘。
 
7代:山口 弘務(ひろちか)【1763~1787】
 越後新発田藩主 溝口直温の七男、母は杉浦氏。1780年(18歳)に弘道の養嗣子となり、1783年に21歳で相続した。享年25。正室は山口弘道の養女(山口弘倉の娘)。
 
8代:山口 弘致(ひろむね)【1781~1829】
 山口弘道の二男、母は鈴木氏。1787年に7歳で相続した。大坂加番、大番頭、大坂定番などをつとめた。享年49。正室陸奥泉藩主 本多忠誠の養女(本多忠雄の娘)曽根のちに離縁、継室は京極高備の娘悛(悦子)。
 
9代:山口 弘封(ひろくに)【1808~1869】
 山口弘致の二男。1829年に22歳で相続した。1839年(32歳)に病気のため隠居した。享年62。正室は美作津山藩主 松平斉孝の娘。
 
10代:山口 弘毅(ひろたか)【1810~1849】
 山口弘致の三男。1839年に30歳で相続した。大坂加番をつとめた。享年40。正室信濃高島藩主 諏訪忠恕の娘。
 
11代:山口 弘敞(ひろあきら)【1812~1862】
 山口弘致の四男。1849年に38歳で相続した。享年51。正室は伊勢神戸藩主 本多忠升娘 源。
 
12代:山口 弘達(ひろよし)【1860~1932】
 山口弘敞の長男、母は本多忠升の娘。1862年に3歳で相続した。1869年に10歳に知藩事となり、1871年に12歳で廃藩置県を迎えた。享年73。正室三河刈谷藩主 土井利善の娘谷子、継室は丹後宮津藩主 本庄宗武の娘。
 

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牛久城址


(3)旗本

山口 重恒(しげつね)【1608~1659】
 山口重政五男、母は小坂雄吉の娘。1630年(23歳)に下総国で千石を賜った。1635年(28歳)のとき、父の遺領のうち五千石を与えられ、先の千石は幕府に収められた。享年52。妻は信濃長沼藩主 佐久間勝之の娘。
 
山口 重直(しげなお)【1634~1675】
 山口重恒長男、母は佐久間勝之の娘。1659年に26歳で相続した。享年42。妻は摂津尼崎藩主 青山幸成の娘。後妻は下総生実藩主 森川重政の娘。
 
山口 重良(しげよし)【1665~1679】
 山口重直長男。1675年に11歳で相続した。1679年、嗣子なくして絶家となった。享年15。
 
小坂 重直(しげとき)【?~?】
 山口重恒二男、母は佐久間勝之の娘。小坂を称す。1661年に廩米三百俵を賜った。
 

(4)一門

山口 重信(しげのぶ)【1590~1615】
 山口重政の二男、母は小坂雄吉の娘。大坂夏の陣にて討死にした。享年26。正室は大久保忠隣の養女。
 
山口 重長(しげなが)【1594~1610】
 山口重政の三男、母は小坂雄吉の娘。享年17。
 
山口 政信(まさのぶ)【1645~1660】
 山口弘隆の二男、母は諏訪忠恒の娘。享年16。
 
山口 重治(しげはる)【1661~1743】
 山口弘隆の三男、母は村上氏。兄重貞の養子となるが、1691年(31歳)に病により嫡子を辞退しました。享年83。
 
山口 重富(しげとみ)【1664~1704】
 山口弘隆の四男、母は村上氏。享年41。
 
山口 豊隆(とよたか)【1702~1729】
 山口弘豊長男、母は松平直堅の娘。父に先立つ。享年28。正室は旗本 戸田光輝の娘。弘豊継室の姪にあたる。
 
山口 弘弥
 山口弘長の子、母は祖母井氏。病弱のため嫡子になれなかった。
 
山口 弘倉(ひろくら)【1733~1768】
 山口弘豊五男、母は栗田氏。1756年に24歳で弘長の養子となった。享年36。正室陸奥泉藩主 本多忠如の娘。
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 特別展 牛久藩主とその時代~歴代藩主が遺したもの~(牛久氏教育委員会/牛久氏文化遺産活用実行委員会)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。