探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

丸岡城主 本多作佐衛門家の分家一族

こんにちは、勘矢です。
今回は前回の続きで、本多重次の弟本多重玄の子孫について調べたことをまとめました。
 
 

1. 本多重玄の子孫

 寛政年間までに断絶した家も含めて、重玄の家から分家した旗本が4家、孫分家の旗本が2家、孫分家の分家が1家ありました。
 

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本多作左衛門系 本多家略系図2
 

(1)旗本:本多金之助家

(寛政年間までの当主)
家祖 本多重玄(しげはる)【1541~1558】
 本多重正の四男。鬼作左こと本多重次の弟になります。三河寺部城の鈴木重教との戦いで討死にしました。享年18。
 
初代 本多 秀玄(ひではる)【?~1617】
 本多重玄の長男。1571年に岡崎信康の小姓となりました。信康の切腹後は伯父重次の元で岡崎城の番を務めました。1590年に徳川家が関東に移ると百五十石を与えられ、本多正信の隊下となりました。妻は本多重次の娘。
 
二代 本多 玄盛(はるもり)【1579~1610】
 本多秀玄の長男、母は本多重次の娘。1600年(22歳)の関ヶ原の戦いでは秀忠軍に附属し、戦後、上総国内にて二百石を与えられ、大番をつとめました。享年32。妻は加藤影久の娘。
 
三代 本多 玄正(はるまさ)【1608~1644】
 本多玄盛の長男、母は加藤影久の娘。1610年に3歳で相続しました。1624年(17歳)に大番となりました。下総国内にて二百石を加えられ、合わせて四百石となりました。享年37。妻は旗本武島茂成の娘。
 
四代 本多 重冬(しげふゆ)【?~1713】
 本多玄正の長男、母は武島茂成の娘。1644年に相続しました。翌年に大番となり、その後、御蔵奉行などをつとめました。1705年に隠居しました。妻は旗本美濃部茂俊の娘。
 寛政譜から生年はわからないが、弟の玄宣は1633年生まれで、重冬と玄宣の間に兄弟が2人いるので、1625~30年ぐらいの生まれと考えられる。70代後半まで現役としてつとめ、80代で亡くなったものと考えられる。
 
本多 玄雄(はるお)【1647~1677】 
 本多重冬の長男、母は美濃部茂俊の娘。1663年(17歳)に大番となりました。享年31。
 
五代 本多 重正(しげまさ)【?~1723】
 本多玄正の四男、母は武島茂成の娘。甥玄雄が亡くなったため兄の養子となりました。1683年に大番となりました。1705年に相続しました。妻は旗本篠山資門の娘。
 寛政譜から生年はわからないが、兄の玄宣は1633年生まれなのでそれ以降の生まれと考えられる。40代後半で養子となり、70を過ぎてから相続したものとみられる。80代後半で亡くなったのではないかと考えられる。
 
六代 本多 忠包(ただかね)【1690~1737】
 旗本 飯田直恒の二男、母は山本某の娘。1709年(20歳)で大番となりました。1723年に34歳で相続しました。享年48。正室は旗本野田恒利の娘。
 
七代 本多 忠正(ただまさ)【1725~1752】
 本多忠包の長男、母は野田恒利の娘。1737年に13歳で相続しました。大番などをつとめました。享年28。
 
八代 本多 重陽(しげあき)【1742~1780】
 本多忠正の長男。1752年に11歳で相続しました。享年39。妻は旗本 石川政敬の娘、後妻は旗本 島田成則の養女(旗本 荒川定親の娘)。
 
九代 本多 忠茂(ただしげ)【1764~?】
 本多重陽の長男、母は島田成則の養女。1780年に17歳で相続しました。妻は旗本江原寛輝の娘。
 
 

(2)旗本:本多作四郎家

(寛政年間までの当主)
初代 本多 玄宣(はるのぶ)【1633~1685】
 本多玄正の三男、母は武島茂成の娘。1650年(18歳)に徳川家綱に附属となり小十人となりました。1652年(20歳)に廩米百俵を賜りました。享年53。妻は豊前小倉藩 小笠原家家臣 喜多村某の娘。
 
二代 本多 信正(のぶまさ)【1663~1722】
 本多玄宣の長男、母は喜多村某の娘。1683年(21歳)に小十人となり、のちに御納戸番となりました。1685年に23歳で相続しました。1692年(30歳)に廩米百俵を加えられ、合わせて二百俵となりました。享年60。
 
三代 本多 玄清(はるきよ)【1670~1746】
 本多玄宣二男、母は喜多村某娘。1693年(24歳)に大番となりました。1722年に53歳で相続しました。1724年(55歳)に甲府城の勤番となりました。1740年(71歳)に老齢のため番を辞職しました。享年77。妻は旗本 広瀬忠義娘。
 
四代 本多 玄行(はるゆき)【1712~1748】
 本多玄清の長男、母は広瀬忠義の娘。1746年に35歳で相続しました。享年37。妻は旗本 松下重則の娘。
 
五代 本多 玄刻(はるとき)【1732~?】
 本多玄行の長男、母は松下重則の娘。1748年に17歳で相続しました。翌年に甲府勤番となりました。妻は加藤長清の娘、後妻は甲府勤番 渡辺清の養女(清の叔父高春の娘)。
 
 

(3)旗本:本多作右衛門家

(寛政年間までの当主)
初代 本多 吉里(よしさと)【1585~1651】
 本多秀玄二男、母は某氏。徳川家光に仕えて大番に列し廩米二百俵を賜りました。のちに二百石の加増があり合わせて四百石となりました。その後、御広敷番の頭となりました。享年67。妻は旗本 小林正直の娘。
 
二代 本多 玄路(はるみち)【1617~1685】
 本多吉里長男。1631年(15歳)より徳川家光に仕えて大番をつとめました。1651年に35歳で相続しました。その後、組頭、御納戸頭、御先弓の頭をつとめました。その間に加増があり、采地八百石廩米二百表となりました。享年69。妻は旗本 小林宗重の娘、後妻は旗本 榊原元義の娘。
 
三代 本多 玄忠(はるただ)【?~?】
 本多玄路長男。1663年に御書院番になりました。1685年に相続しました。七百石を知行し、三百石を弟重路に与えました。1715年に隠居しました。妻は旗本 杉浦吉勝の娘。
 
四代 本多 玄能(はるよし)【?~?】
 本多玄忠長男、母は某氏。1715年に相続しました。1718年に御書院番に列しました。1750年、分家 本多重英の養女に関する問題に連座して放逐となりました。妻は旗本 新井明卿の養女。※明卿は新井白石の子。
 
 

(4)旗本:本多伝蔵家

(寛政年間までの当主)
初代 本多 重路(しげみち)【?~1731】
 本多玄路二男。1667年に御小姓組に列し、翌々年に廩米三百俵を賜りました。1685年に御膳奉行になり、兄から父の遺領を与えられ、先の廩米は収められました。その後、御小納戸などをつとめました。1692年に三百俵の加増があり、のちに廩米を改められ六百石を知行しました。
 
二代 本多 重英(しげひで)【?~?】
 本多重路の長男。1696年に御近習番となり、翌年に御小姓組に列しました。1701年に城内での振る舞いに問題があり逼塞を命じられ、番を辞職しました。1732年に相続しました。1750年、養女に関する問題で遠流となりました。妻は長田守直の娘。
 
 

(5)旗本:本多政之助家

(寛政年間までの当主)
初代 本多 重盛(しげもり)【1620~1688】
 本多吉里の二男、母は小林正直の娘。1651年(32歳)に上野館林藩徳川綱吉の附属となり、廩米百五十俵を賜りました。その後、神田の屋敷において小納戸などをつとめたあと、館林城の城番となりました。その間、しばしば加増があり、五百五十俵となりました。1680年、綱吉の子徳松に仕えて西の丸に勤士しましたが、徳松が逝去すると小普請となりました。享年69。妻は大覚寺の家人 上月宣勤の娘。
 
二代 本多 重恒(しげつね)【1663~1699】
 本多重盛の長男、母は上月宣勤の娘。1688年に26歳で相続しました。小納戸などをつとめました。1697年(35歳)に廩米を改めて下野国内で五百五十石を賜りました。享年37。妻は本多玄忠の娘。
 
三代 本多 重雅(しげまさ)【1692~1736】
 本多重恒の長男、母は本多玄忠の娘。1699年にわずか8歳で相続しました。1719年(28歳)に御書院番となりました。1736年に駿府城の守衛中に亡くなりました。享年45。妻は大河内有直の娘。
 
四代 本多 重隆(しげたか)【1718~1744】
 本多重雅の長男、母は大河内有直の娘。1736年に19歳で相続しました。1741年(24歳)に西の丸御小姓組の番士となりました。享年27。
 
五代 本多 玄頼(はるより)【1728~1790】
 本多玄能の二男、母は新井明郷の養女。1744年に17歳で相続しました。1757年(30歳)西の丸の御小姓組に列し、のちに本丸のつとめとなりました。1790年に63歳で隠居しました。享年63。妻は旗本 小泉義易の娘。
 
六代 本多 玄幸(はるよし)【1768~?】
 本多玄頼の二男、母は小泉義易の娘。1790年に23歳で相続しました。1797年(30歳)に御小姓組に列しました。妻は本康徳儀の娘。
 
 

(6)旗本:本多喜太郎家

(寛政年間までの当主)
初代 本多 重矩(しげのり)【1664~1724】
 本多重盛の二男、母は上月宣勤の娘。1681年(18歳)に徳川綱吉の子徳松に仕えて、廩米百五十俵を賜りました。1689年(26歳)に御小納戸となり、翌年に御小姓にうつり、加増があり三百俵となりました。1691年(28歳)、故ありて逼塞となり、のちゆるされました。その後、御近習、大番などをつとめました。享年61。妻は旗本 前田定相の娘。
 
二代 本多 重丘(しげおか)【1699~1741】
 本多重矩の長男、母は前田定相の娘。1724年に26歳で相続しました。御腰物方などをつとめたのち、1731年(33歳)に田安宗武の附属となり近習番などをつとめました。享年43。妻は旗本 平岡正之の娘。
 
三代 本多 玄幸(よしゆき)【1729~1781】
 本多重丘の長男、母は平岡正之の娘。1742年に14歳で相続しました。大番をつとめました。享年53。
 
四代 本多 玄堅(よしかた)【1764~?】
 本多玄幸の長男。1781年に18歳で相続しました。大番、御小納戸をつとめました。妻は旗本 近藤正方の娘。
 
 

(7)旗本:本多直之進家

(寛政年間までの当主)
初代 本多 玄重(はるしげ)【?~1684】
 本多秀玄の四男、母は本多重次の娘。1630年に徳川家光に仕えて小十人となり、のちに廩米百俵を賜りました。 その後、御納戸番などをつとめ、加増があり四百俵となりました。
 
二代 本多 玄堅(はるかた)【?~1727】
 本多玄路の二男。1672年に大番に列しました。1684年に相続しました。1701年に隠居しました。妻は本多玄重の娘。
 
三代 本多 玄次(はるつぐ)【?~1738】
 旗本 榊原宗好の二男。1701年に相続しました。大番などをつとめました。妻は本多玄堅の娘。
 
四代 本多 秀房(ひでふさ)【1715~1790】
 本多重矩の三男、母は前田定相の娘。1738年に24歳で相続しました。大番をつとめました。1789年に75歳で隠居しました。享年76。妻は本多玄次の娘。
 
五代 本多 秀政(ひでまさ)【1750~?】
 本多秀房の長男、母は本多玄次の娘。1789年に40歳で相続しました。大番をつとめました。妻は紀州家家臣  窪田政信の娘。
 
 

(8)旗本:本多五郎兵衛家

(寛政年間までの当主)
初代 本多 成於(なるお)【1611~1689】
 本多秀玄の五男、母は本多重次の娘。1632年(22歳)に小十人となり、のちに廩米百俵を賜りました。その後、御納戸番などをつとめ、加増があり四百俵となりました。享年79。妻は旗本 太田助重の娘。
 
二代 本多 成直(なりなお)【1650~1728】
 旗本 跡部重治の二男、母は山中元吉の娘。1678年(29歳)に御書院番となりました。1689年に40歳で相続しました。享年79。妻は本多成於の娘。
 
三代 本多 成恭(なりやす)【1693~1755】
 旗本 青木信峯の二男、母は高木定清の娘。1709年(17歳)に御小姓組に列しました。1728年に36歳で相続しました。1737年(45歳)から西の丸で勤士しました。享年63。妻は旗本 逸見義武の娘。
 
四代 本多 成増(なります)【1727~1767】
 本多成恭長男、母は逸見義武の娘。1750年(24歳)に御書院番の番士となりました。1755年に29歳で相続しました。享年41。妻は旗本 小出晟英の娘。
 
五代 本多 成福(なりよし)【1745~1772】
 本多成興の四男。1767年に23歳で相続しました。享年28。妻は本多成増の娘。
 
六代 本多 成盛(なりもり)【1766~?】
 本多成福の二男、母は本多成増の娘。1772年にわずか7歳で相続しました。妻は旗本 松永政央の娘。
 
 ※旗本各家の見出しの家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。