こんにちは、勘矢です。
1. 高家戸田家
2. 高家戸田家当主一覧
初代 戸田 氏豊(うじとよ)【?~1698】
六条有純の子、母は戸田一西の三男為春の娘。
1649年に武蔵国足立郡において采地千石を賜り、翌年、高家列しました。1658年、1661年、1673年に御使をうけたまわり上洛しました。1679年に務めを辞職して寄合に列しました。1696年にに隠居しました。
二代 戸田 氏興(うじおき)【1670~1709】
戸田氏豊の長男。
1696年に27歳で相続し、高家となりました。1705年(36)に肝煎となり、伊予松山藩主 松平(久松)定直に副って上洛しました。同年、武蔵国埼玉郡において采地千石を加えられ、合わせて二千石となりました。1709年(40)に御使に指されて上洛しました。享年40。
妻は大上臈某氏の養女。
三代 戸田 氏尹(うじただ)【1697~1769】
1709年に13歳で相続し、表高家に列しました。1742年に46歳で隠居しました。享年73。
妻は戸田氏興の娘。
四代 戸田 氏富(うじとみ)【1718~1761】
戸田氏尹の長男、母は戸田氏興の娘。
妻は旗本 水野分質の娘。
五代 戸田 氏朋(うじとも)【1735~1810】
戸田氏富の長男。
1761年に27歳で相続しました。1767年(33)に高家に列しました。翌年、十代将軍 徳川家治の二女万寿姫が尾張藩世子 徳川治休と婚約すると御使をうけたまわり、日光山に赴きました。1776年(42)に高家 大沢基典(定寧)が急病につき、代わりに上洛しました。1782年(48)に将軍家世子徳川家斉の元服により御使をうけたまわり、上洛しました。1797年(63)に肝煎となりました。享年76。
妻は高家 日野資陽の娘(離婚)、後妻は戸田定候の娘。
徳川幕臣人名辞典や続徳川実記では名前が氏明となっている。
六代 戸田 氏倚(うじより)【1773~1837】
戸田氏朋の長男、母は戸田定候の娘。
1798年(26)に高家見習となり、切米五百俵を賜りました。同年、高家となり、切米千俵を賜りました。1810年に38歳で相続し、高家肝煎に任じられました。1817年(45)に仁孝天皇の即位の際に、将軍使者の差添に任じられました。1822年(50)に十一代将軍徳川家斉の左大臣転任の賀使の差添に任じられました。享年65。
妻は旗本 戸田氏紹の娘(母の姪)、後妻は伊予今治藩主 松平(久松)定休の娘。
七代 戸田 氏敏【?~1850】
戸田氏倚の子。加賀守。
1835年に相続しました。
八代 戸田 氏範【?~?】
常陸土浦藩主 土屋彦直の子。範之丞、日向守。彦直は水戸藩主 徳川治保の子で土屋寛直の養子となり、その養女(妹で英直の娘)を娶りました。英直の祖父政直は公家の六条有和の娘を正室に迎えました。有和の兄弟が高家戸田家初代氏豊です。
九代 戸田 氏貞【?~?】
参考文献:
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。