探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

大垣藩分家の旗本戸田一族

こんにちは、勘矢です。
前回(美濃大垣藩 戸田家と三河畑村藩 戸田家 - 探検!日本の歴史)の続きで、大垣藩戸田家から分家した戸田一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 旗本戸田家

 戸田氏信の五男氏広は、兄氏西より新田二千石を分与され分家となりました。幕末の氏著は、一橋家の家老をつとめました。
 戸田氏定の二男定候は、兄氏長より廩米五千俵を分与され分家となりました。
 

f:id:SGM335:20200224141104p:plain

大垣藩系 旗本戸田氏の略系図

2. 旗本家当主一覧

(1)旗本:戸田伊三郎家

初代 戸田 氏広(うじひろ)【1640~1712】
 戸田氏信の五男、母は牧野忠成の娘。
 1674年(35)に兄氏西から新墾の田二千石を分け与えられ、寄合に列しました。1704年に65歳で隠居しました。享年73。
 
二代 戸田 氏賢(うじかた)【1670~1747】
 大垣藩家臣 戸田信等の二男、母は同家の臣戸田正俊の娘。
 1704年に35歳で相続し、寄合に列しました。享年78。
 
三代 戸田 氏亮(うじすけ)【1704~1753】
 大垣藩家臣  戸田三頼の子、母は同家の臣戸田九郎右衛門の娘。
 1747年に44歳で相続し、小普請となりました。享年50。
 妻は旗本 大久保忠因の娘。
 
 氏亮の父三頼の通称が五郎左衛門で、氏鉄の子で家臣になった氏頼の通称も五郎左衛門なので、氏亮は氏頼の子孫ではないかと考えられる。
 
四代 戸田 氏住(うじすみ)【1726~1790】
 遠江掛川藩主 太田資俊の弟で太田資晴の七男。
 1753年に28歳で相続しました。1784年に59歳で隠居しました。享年65。
 妻は旗本 松下長堅の娘、後妻は駿河小島藩主 松平信嵩の娘。
 
 氏住の父資晴の正室大垣藩主戸田氏定の娘であったことから、養子に迎えられたものと考えられます。そのためか、後妻は大名家から迎えています。
 
五代 戸田 氏昌(うじしげ)【1760~?】
 戸田氏住の長男、母は松下長堅の娘。
 1784年に25歳で相続しました。同年御小姓組の番士に列しました。
 1809年(50)に隠居しました。
 妻は旗本 市橋長承の娘。
 
六代 戸田 氏香【?~1819】
 戸田氏昌の養子。
 1809年に相続し、1818年に西の丸小姓組から使番となり、1819年に没したと考えられる。
 
 続徳川実記 第二篇には、文化6年7月22日項「戸田主税助養子西城小姓組織部・・・父致仕して子家つぐもの」、文政元年正月11日項「西城小姓組戸田織部。・・・使番となる。」、文政2年12月27日の項「使番戸田主税助子伊三郎。・・・父死して家つぐもの」とあります。寛政譜によると氏昌の項に「主税」とあり、徳川幕臣人名辞典の戸田氏著の項に「父は使番戸田氏香。伊三郎と称し、・・・」とあるので、織部は氏香のことであり、家督相続後に主税助と改めたと考えられる。
 
七代 戸田 氏著(うじあき)【?~?】
 戸田氏香の子。伊三郎。
 1819年に相続しました。
 1825年に小普請から西の丸御小納戸になりました。1827年に西の丸小姓となり、1837年に徳川家慶が十二代将軍になると本丸小姓にうつり、1841年に使番となりました。1845年に火事場見廻りを兼帯し、翌年目付となり、1850年に日光奉行、1852年に奈良奉行、1858年に普請奉行となりました。
 1859年に一橋家の家老になり、1864年に二条城の御留守居となり、のち大目付となりました。1866年に御留守居となるが、同年に御役御免となって寄合となりました。
 
一橋家の家老についてはこちらをご覧ください。
 
 

(2)旗本:戸田近江守家

初代 戸田 定浩(さだひろ)【1693~1759】
 戸田氏定の三男、母は伊藤氏。
 1732年(40)に兄氏長より廩米五千俵を分け与えられ、寄合に列しました。翌年、御小姓組の番頭になりました。1737年(45)に西の丸御書院の番頭にうつり、1746年(54)に大番の頭に転じ、1750年(58)に御留守居に進み、1757年(65)に辞職しました。享年67。
 
戸田 定候(さだとき)【1721~1749】
 戸田定浩の長男。
 1749年(29)父に先立ち没しました。享年29。
 妻は旗本 小笠原政登の娘。
 
二代 戸田 氏紹(うじつぐ)【1743~1779】
 戸田定候の長男、母は小笠原政登の娘。
 1759年に17歳で相続しました。1768年(26)に中奥の御小姓となりました。1777年(35)に御小姓組の番頭に進みました。享年37。
 妻は伊勢長島藩主 増山正贇の娘(離婚)。
 
三代 戸田 氏澄(うじずみ)【1766~?】
 戸田氏紹の長男。
 1779年に14歳で相続しました。
 妻は美濃大垣藩 戸田氏教の養女(旗本 戸田氏永の娘<戸田阿波守家>)。
 
四代 戸田 氏有【?~?】
 戸田氏澄の子。
 1811年に相続しました。
 妻は美濃大垣藩主 戸田氏庸の娘 整(離別)。
 
五代 戸田 氏永【1835~1853】
 戸田氏庸の七男。十三郎。
 義兄氏有の養子となり、1846年(12)に相続しました。享年19。
 
六代 戸田 氏寛【1842~1914】
 戸田氏正の三男。
 1853年(12)に叔父氏永の養子となり、1854年に13歳で相続し、寄合に列しました。享年72。
 
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 大垣市史 上巻(国立国会図書館デジタルコレクション
 寛政譜以降 旗本百科事典 第3巻(東洋書林) 
 続徳川実紀 第二篇(国立国会図書館デジタルコレクション
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。