探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

大垣藩分家の旗本戸田一族 その2

こんにちは、勘矢です。
今回も引き続き、大垣藩戸田家から分家した一族について調べたことをまとめました。
 
 

1. 旗本戸田家

 戸田氏鉄の六男氏照は、兄氏信より新田四千石を内分され分家となりました。陣屋が置かれた場所から牛洞戸田氏と呼ばれました。
 戸田氏照の二男氏道は、父の遺領のうち深坂村五百石を分与され分家となりました。陣屋が置かれた場所から深坂戸田氏と呼ばれました。幕末の氏栄は浦賀奉行をつとめました。
 
 

2. 旗本家当主一覧

(1)旗本:戸田阿波守家

f:id:SGM335:20200307150500p:plain

牛洞戸田氏の略系図
初代 戸田 氏照(うじてる)【?~1678】
 戸田氏鉄の六男、母は松平康長の娘。
 1637年に島原の乱に出陣しました。のちに召されて将軍世子徳川家綱の附属となり、御小姓をつとめました。1650年に西の丸御徒の頭となり、廩米五百俵を賜り、のちに本丸に勤士しました。翌年、三百俵を加増されました。1655年に兄氏信から美濃国大野郡において新墾の田四千石を分け与えられ、廩米は収められました。同年、御小姓組の番頭に移りました。その後、御書院番の番頭、大番の頭をつとめ、1676年に辞職して寄合に列しました。1677年に隠居しました。
 妻は旗本 中根正成の養女(旗本 中根正次の娘)。
 
二代 戸田 氏胤(うじたね)【1653~1701】
 戸田氏照の長男、母は中根正成の養女。
 1677年に25歳で相続しました。三千五百石を知行し、五百石を弟氏道に分け与えました。1689年(37)に御書院の番頭となり、1698年(46)に辞職しました。享年49。
 妻は上総飯野藩主 保科正景の娘。
 
三代 戸田 氏常(うじつね)【1696~1751】
 戸田氏胤の長男、母は保科正景の娘。
 1701年にわずか6歳で相続しました。1719年(24)に故ありて一時出仕を止められました。享年56。
 妻は旗本 阿部正房の娘。
 
四代 戸田 氏香(うじか)【1723~1758】
 戸田氏常の三男、母は阿部正房の娘。
 1751年に29歳で相続しました。享年36。
 妻は旗本 池田頼教の娘。
 
五代 戸田 氏休(うじよし)【1728~1789】
 戸田氏常の五男、母は阿部正房の娘。
 1758年に31歳で相続しました。1766年に39歳で隠居しました。享年62。
 
六代 戸田 氏純(うじすみ)【1730~1792】
 常陸土浦藩主 土屋陳直の三男。氏純の祖父土屋政直の正室は公家の六条氏で、その祖父六条有純の妻が戸田氏西の孫娘という関係です。
 1766年に37歳で相続しました。1771年に42歳で隠居しました。享年63。
 妻は戸田氏休の養女(氏香の娘)。
 
七代 戸田 氏永(うじなが)【1751~1797】
 交代寄合 松平(久松)康郷の七男。氏永の実家、久松松平家の祖は徳川家康の異母弟松平康元で、その妹が戸田宗家の松平(戸田)康長に嫁ぎ、その娘が牛洞戸田家の祖氏照の母にあたります。
 1771年に21歳で相続しました。享年47。
 妻は戸田氏純の養女(氏休の娘)。
 
八代 戸田 氏寧(うじやす)【1776~1839】
 戸田氏永の長男。
 1797年に22歳で相続しました。1799年(24)に御小納戸となり、1801年(26)に西の丸小姓となりました。1817年(42)に西の丸小姓頭取になり、1827年(52)に小姓組番頭に転じ、1830年(55)に紀州へ御使を仰せ付けられました。翌年、書院番頭となり、1837年(62)に大納言殿御側となりました。享年64。
 妻は旗本 久世広徳の娘。
 
九代 戸田 氏寿【?~1852】
 戸田氏寧の子。栄次郎。
 1837年に十二代将軍徳川家慶に初見し、1839年に召し出されて小姓のちに将軍世子家祥の小性となりました。同年、父が没したため家を相続しました。(続徳川実記 第三篇) 
 妻は戸田氏庸の養女 立(高家 戸田氏倚の娘)
 
戸田 定之助【1837~1854】
 戸田氏庸の八男。
 大垣市史上巻では戸田氏寧の養子と記載されていますが、続徳川実記 第三篇には戸田阿波守養子定之助と記載があります。
 1852年(16)に相続しました。享年18。
 
 大垣市史上巻の牛洞戸田氏の項や徳川旗本八万騎人物系譜総覧では歴代当主に数えられておらず、氏寿のあとは氏益が継いだとなっています。定之助は家を相続したものの、何らかの理由があって氏益を養子にすることができず、氏益は定之助の身代わりになったのではないかと考えます。
 
十代 戸田 氏益【1850~?】
 戸田氏正の四男。三郎四郎。欽堂。
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧では、1852年(3)に相続したとあります。
 1854年(5)に嫡母(氏正の正室島津重豪の娘 種姫)の養いとなって出府し、戸田監物の嗣となったとあります。(大垣市史上巻)。監物が定之助と考えられます。
 1860年(11)に江戸城本丸の御普請のため上納金(金百両)を仰せ付けられました。(続徳川実記 第四篇
 
 

(2)旗本:戸田主水家

 

f:id:SGM335:20200307150908p:plain

深坂戸田氏の略系図
初代 戸田 氏道(うじみち)【?~1705】
 戸田氏照の二男、母は中根正成の養女。
 1661年に中奥に候して番をつとめ、翌年、廩米四百俵を賜りました。1677年に父氏照の采地美濃大野郡において五百石を分け与えられ、廩米は収められました。1685年に御書院の番士となり、のちに番を辞職して小普請となりました。
 
二代 戸田 氏紀(うじとし)【?~1728】
 旗本 森川重信の三男、母は井上正利の娘(常陸笠間藩主)。
 1693年に御小姓組に列し、1695年より進物役をつとめ、翌年桐間の番士に移りました。1701年に御近習番に転じ、その後御小姓にすすむが、翌年故ありて小普請に貶され出仕をはばかり、1704年に赦されて、御小姓組の番士に復しました。
 1705年に相続しました。1717年に御書院の組頭にすすみ、1724年より西の丸に勤士しました。
 
 氏紀の生年は不詳であるが、すぐ上の同母兄の森川俊央が1674年生まれなので、それ以降の生まれである。
 氏道と氏紀の関係について。氏道の伯母は京都所司代 板倉重宗に嫁いで娘を儲け、その娘が旗本 森川重政に嫁いでその孫が氏紀となります。
 
三代 戸田 氏喜(うじよし)【1716~1789】
 旗本 戸田氏常の二男、母は阿部正房の娘。初代氏道の甥の子。
 1728年に13歳で相続しました。1742年(27)に御小姓組となり、1745年(30)に辞職しました。1766年に51歳で隠居しました。享年74。
 
四代 戸田 氏孟(うじたけ)【1738~1785】
 旗本 新庄直良の二男、母は小出直昌の娘。
 1766年に29歳で相続しました。同年、御書院番となりました。1770年(33)に庄内藩主酒井忠徳が幼少のため、菅沼定亨に副って庄内におもむき、その政務を監した。1777年(40)に御徒の頭に転じました。
 1781年(44)に佐渡奉行に移り、1784年(47)に長崎奉行にすすみ、翌年長崎において没しました。享年48。
 妻は旗本 横田松春の娘。
 
氏喜と氏孟の関係について。氏喜の大叔父が初代氏道で、その従妹が旗本 森川重政の妻で、重政の従兄弟森川重清の娘が旗本 都筑為得でその弟が旗本新庄家に養子入りした直良で、その子が氏孟となります。
 
五代 戸田 氏友(うじとも)【1769~?】
 旗本 赤井忠晶の四男。
 1785年に17歳で相続しました。1796年(28)に御書院番に列しました。。
妻は戸田氏孟の娘。
 
六代 戸田 氏栄(うじよし)【1799~1858】
 戸田氏友の子。
 1841年(43)に西の丸小姓組より御徒頭、次いで使番となり、書物御用見廻、駿府目付代などをつとめ、1843年(45)に目付、駿府町奉行となりました。
 1847年(49)に日光奉行となるも翌月に浦賀奉行になり、勤役中二千石高、一か年金二百両を拝領しました。異国船来航時における諸藩への指揮権を確立するため、浦賀奉行は長崎御奉行次席の格で諸大夫場となりました。
 1853年(55)にペリー艦隊が来航した際には、本家の大垣藩から藩兵を動員し、久里浜村(神奈川県横須賀市)の応接所でアメリカ大統領国書を受理しました。翌年のペリー再来航時においても日本側全権として横浜村(神奈川県横浜市)で日米和親条約を結ぶなそ、幕府の対外政策において重要な役割を果たしました。
 同年、西の丸御留守居に移り、1857年(59)に大坂町奉行へ転じたが、翌年大坂において没しました。
 享年60。
 
七代 戸田 寛十郎
 戸田氏栄の子。
 1858年に相続しました。
 1860年に御書院番から御徒頭となりました。1862年に翌年の十四代将軍徳川家茂の上洛にお供を仰せ付けられました。(続徳川実記 第四篇
 
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 大垣市史 上巻(国立国会図書館デジタルコレクション
 寛政譜以降 旗本百科事典 第3巻(東洋書林) 
 続徳川実紀 第三篇、第四篇(国立国会図書館デジタルコレクション
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。