探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

高家品川家

こんにちは、勘矢です。
今回は前回(高家今川家 - 探検!日本の歴史)扱った高家今川家の分家、高家品川家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 品川氏とは

 今川氏真の二男高久が、徳川将軍家から今川の称号は宗家だけとし、品川とするように仰せがあって改名したことからはじまります。
 高久は千石を与えられ、四代範増が早世すると無嗣廃絶となりましたが、祖先の勲功に免じて、叔父信方に三百石を与えられ再興しました。
 高久の二男高寛から始まる分家があります。
 

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品川氏の略系図
 
 

2. 品川家当主一覧

(1)高家:品川内記家

初代 品川 高久(たかひさ)【1576~1639】
 今川氏真の二男、母は北条氏康の娘 早川殿。
 1601年(26)に上野国内で采地千石を賜りました。享年64。
 妻は鷲尾筑後の娘。
 
二代 品川 高如(たかゆき)【1612~1671】
 品川高久の長男、母は鷲尾筑後の娘。
 1639年に28歳で相続し、表高家に列しました。1644年(33)に奥高家となりました。仰せを受け賜わり京都や日光・伊勢などに赴きました。1663年(52)に四代将軍 徳川家綱が日光山に詣でるときに供奉しました。享年60。
 妻は上総佐貫藩主 松平(能見)勝隆の養女(松平忠輝の付家老松平(能見)重勝の二男重長の娘、勝隆の姪)。
 後妻は三河西尾藩主 増山正利の姉。正利の姉は徳川家光の側室お楽の方の姉でもあり、徳川家綱の伯母にあたる。
 
三代 品川 伊氏(これうじ)【1669~1712】
 上総佐貫藩主 松平重治の二男、母は久世広之の娘。
 1671年にわずか3歳で相続しました。1688年(20)に奥高家となりました。仰せを受け賜わりたびたび京都に赴きました。1710年(42)に五百石を賜りました。享年44。
 妻は旗本 蒔田定行の娘。
 
四代 品川 範増(のります)【1712~1713】
 品川伊氏の三男。
 1712年にわずか1歳で相続しましたが、翌年早世したため無嗣断絶となりました。享年2。
 
五代 品川 信方(のぶかた)【1684~1749】
 松平重治の四男。
 1684年(1)に父が改易されたため、兄勝秀とともに大和郡山藩主 松平(藤井)信之に預けられ、2年後にゆるされました。その後、叔父の松平(能見)勝制の養子となるも病により実家に戻りました。
 1713年(30)に断絶した品川家の名跡相続を先祖の勲功によって許され、上野国内で三百石を賜りました。また、表高家に列しました。享年66。
 
六代 品川 氏如(うじゆき)【1732~1780】
 品川信方の長男。
 1749年に18歳で相続しました。享年49。
 
七代 品川 氏長(うじなが)【1764~1788】
 高家 前田長敦の三男。この前田家は公家の高辻家の分家。
 1780年に17歳で相続しました。享年25。
 
八代 品川 氏維(うじすけ)【?~?】
 旗本 竹中定弘の二男、母は鈴木氏。
 1788年に相続しました。1793年に隠居し、のちに病によって実家に戻りましたしかし、1798年に逐電しました。
 妻は田安家の家臣 竹中定胤の養女。
 
九代 品川 高美(たかよし)【1768~1809】
 旗本 松平(大給)近朝の二男、母は松平近貞の娘。言氏とも。
 1793年に26歳で相続しました。1798年(31)に養父氏維が逐電したため、出仕を止められました。享年42。
 
十代 品川 高尚【?~1814】
 品川高美(言氏)の子。駒之助。
 1809年に相続しました。
 
十一代 品川 氏繁【?~1850】
 旗本 松平(大給)近礼の子。銀次郎、内記、豊前守。
 1814年に相続しました。1840年に奥高家となりました。
 
十二代 品川 氏恒【?~?】
 高家 戸田氏倚の子。直之丞、式部大輔
 1850年に相続しました。翌年に奥高家となりました。
 
高家戸田家についてはこちらをご覧ください。

(2)旗本:品川権大夫家

(寛政年間までの当主)
初代 品川 高寛(たかひろ)【1616~1697】
 品川高久の二男、母は鷲尾筑後の娘。
 1630年(15)に下野国内で采地二百石を賜りました。1637年(22)に御小姓組の番士に列し、1660年(45)に廩米百俵を加増されました。1678年(63)に番を辞職して小普請となりました。1694年に79歳で隠居しました。享年82。
 
二代 品川 高清(たかきよ)【1672~1706】
 品川高寛の二男。
 1694年に23歳で相続しました。享年35。
 妻は旗本 松平(長沢)親明の養女(若狭小浜藩 酒井家の家臣 長沢明安の娘)。
 
三代 品川 高房(たかふさ)【1695~1757】
 原充活の子、母は大岡助久の養女。
 1706年に12歳で相続しました。1719年(25)に御小姓組に列しました。享年63。
 妻は品川高房の娘。
 
四代 品川 高純(たかずみ)【1732~1789】
 品川高房の長男。
 1757年に26歳で相続しました。翌年西ノ丸の御小姓組となりました。数年おきに本丸と西ノ丸に務め場所が変わりました。享年58。
 妻はは旗本 新庄直良の娘。
 
五代 品川 高政(たかまさ)【1759~?】
 品川高純の長男、母は新庄直良の娘。
 1789年に31歳で相続しました。翌年御小姓組の番士となりました。1796年(38)に若君(徳川家慶)に附属となりました。
 妻は旗本 近藤文成の娘。
 
品川 高標(たかすえ)
 品川高純の三男。
 兄高政の養子となりました。
 妻は旗本 近藤文敬の娘。文成の孫娘。
 
 

3. 高家品川家の婚姻関係

 二代高如は松平勝隆の養女を迎え、長男重治は勝隆の養子となりました。高如は重治の子伊氏を養子にして跡を継がせました。
 
 四代範増が早世すると叔父の信方に再興をゆるされました。
 
 六代氏如の跡は、高家前田長敦の子氏長が継ぎました。氏如と氏長は今川家と喜連川家を介した遠縁の関係です。氏如の従兄弟今川範主の子今川義泰の妻が喜連川茂氏の娘です。氏長の祖母が喜連川氏春の娘です。氏春の娘と茂氏の娘がおばと姪の関係です。
 
 八代氏維は、二代高如の後妻増山氏・徳川将軍家鷹司松平家を介した遠縁の竹中家から迎えられました。また、竹中家を辿ると、初代高久の生母早川殿の実家北条家をともつながっています。
 
 九代高美(言氏)は高久の従兄北条氏直正室督姫の妹(家康の養女)が嫁いだ大給松平家から迎えられました。
 
 十一代氏繁は、先代高尚の従兄弟の子です。
 
 十二代氏恒は、高家戸田家から迎えられました。氏恒の祖母が久松松平家の出身で、徳川家康の異父弟松平定勝の子孫になります。
 

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高家品川氏の婚姻関係
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 徳川幕臣人名辞典(東京堂出版
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 日本名字家系事典(東京堂出版
 寛政譜以降 旗本百科事典 第3巻(東洋書林) 
 徳川実紀  第1/第2/第3国立国会図書館デジタルコレクション)
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。