探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

大垣藩の家老と戸田一門

こんにちは、勘矢です。
今回は、大垣藩の家老及び戸田一門について調べたことをまとめました。
 
 

1. 大垣藩の家老

 大垣藩における家老は、藩主の代理として軍事を掌る最重職であるので、藩政に直接関与しませんでした。藩政をになったのは城代という役職で、組頭の中から選ばれた4人(幕末には6人)でした。城代で著名なのは、幕末の小原鉄心であります。
 家老の主たる任務は軍事を指揮・監督することであり、本来の活躍の場は主に戦場でした。島原の乱には、家老として大高金右衛門、戸田治部左衛門、戸田権之允が出陣し、幕末の第2次長州征伐には戸田式部、戸田権之助が出陣しました。
 家老の人数は時代によって増減はあるものの、享保以降は大高金右衛門、戸田治部左衛門、戸田縫殿の三家の人物が務めていました。1803年から1826年の間は、理由は不明であるが戸田治部左衛門が家老職から外され、この間は大高金右衛門家と戸田縫殿家が、父が家老・子が家老見習という体制でした。
 

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大垣城 東門(内柳門の移築)
 

(1)大高金右衛門家

 出羽大高氏の支流といい、初代金右衛門一度が戸田氏光(藩祖戸田氏西の父)に仕え、1602年に家老となり、以後代々金右衛門と称し、大手門内に屋敷を与えられました。
 
○主な当主
初代 一度:戸田氏鉄に仕えて千五百石を与えられました。
 
二代 孝親:1618年に家督を継ぎ、加増されて二千石となりました。
 
七代 道度:丹羽五左衛門家からの養子。
 
   集度:1822年の分限帳に家老として記載あり。
 
十代 幸度:通称玄蕃。
 

(2)戸田治部左衛門家

 戦国時代に越後の上杉謙信に仕えた渋谷治永の子治部左衛門永重は、関ヶ原の戦い後に浪人し、のちに戸田氏鉄に仕えて家老となり、永重は氏鉄の弟正直の嫡子直永を養子に迎え、戸田姓を賜りました。代々治部左衛門を称しました。大高金右衛門と同様に大手門内に屋敷を与えられました。
 
○主な当主
初代  永重:戸田氏鉄に仕えて千二百石を与えられました。
 
二代  直永:氏鉄の弟正直の嫡子。
 
三代  直茂:加増されて千四百石となりました。
 
七代  直澄:1789年に31歳で没しました。
 
八代  直之:戸田権太夫の三男。直澄の実子が幼少のため養子となり相続しました。1803年に家老から知行組頭となりました。1806年に隠居し、翌年に没しました。
 
九代  直安:七代直澄の嫡男。1806年に相続し、知行は千石。1826年に家老職に戻り、四百石を加増されました。
 
十代  直喬(直著):妻は大垣藩主 氏庸の娘 節。32歳で病没。
 
十一代 鋭之助直養:生母が藩主氏庸の娘。わずか6歳で家督相続し、家老職となりました。明治維新ごは、第百二十九銀行頭取や初代大垣町長、大垣商業会議所会頭などを勤め、大垣の発展のために尽力しました。
 

(3)戸田権左衛門家

 この戸田家は、寛永年間は戸田権之允正俊が当主で千五百石を知行していました。元禄年間(1688~1703年)は戸田権左衛門正純が当主で二千石を知行し、赤穂事件の際に赤穂藩士説得のため、正使として派遣されました。権左衛門は、藩主の孫信晴(大垣藩主氏信の七男 氏方の子)を養子に迎えましたが、権左衛門の死後、故あって信晴は離縁したため、権左衛門家は断絶しました。
 

(4)戸田縫殿家

 1716年に信晴は四代大垣藩主氏定から新たに二千石を与えられて家老となり、のちに筆頭家老となりました。
 
○主な当主
初代 信晴:大垣藩主 氏信の七男 氏方の子。二千石を与えられました。
 
三代 縫殿
 
四代 帯刀 信辰:1822年の分限帳に家老として記載あり。
 
五代 右京 信周:1822年の分限帳に家老として記載あり。
 
六代 縫殿 信敏:妻は大垣藩主 氏庸の八女 春。
 
七代 式部 晋:のち縫殿。妻は大垣藩主 氏正の九女 藤。
 
八代 氏興:大垣藩主氏正の六男。1871年に嗣ぐ。
 
 

2. 戸田一門

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大垣藩戸田氏と分家の略系図
 
戸田正直(まさなお)【?~1641】
 戸田氏西の二男、母は真木氏常の娘。。
 家臣となる。大垣市史 上巻 氏鉄公時代の藩中諸士、家老及組外諸士の項に「二千石 戸田四郎右衛門」。
 
戸田為春(ためはる)【?~1624】
 戸田氏西の三男。
 大坂の陣において軍法に背き退去する。
 娘が公家の六条有純に嫁ぎ、その子が高家戸田家の祖となる。
 
戸田勝興(かつき)【?~1629】
 戸田氏西の四男。
 二代将軍徳川秀忠に仕えた。故ありて大垣にて蟄居。子孫家臣となる。戸田治右衛門家の祖。
 戸田治右衛門家は、大垣市史 上巻 氏鉄公時代の藩士、家老及組外諸士の項に「百五十石 戸田治右衛門(倫忠)」。氏信公時代の藩中諸士、一門並組外諸士の項に「八百石 戸田治右衛門(組頭)」。
 
戸田氏頼(うじより)【?~1686】
 戸田氏鉄の四男、母は蒲生氏。
 子孫家臣となる。大垣市史 上巻 氏信公時代の藩中諸士、一門並組外諸士の項に「千三百石 戸田五郎左衛門」。
 
戸田頼鉄(よりかね)【?~1663】
 戸田氏鉄の五男、母は松平(戸田)康長の娘。
 二代将軍徳川秀忠に仕え、のち病により仕えを辞退して大垣に住みました。
 大垣市史 上巻 氏鉄公時代の藩中諸士、一門及び組外衆の項に「二千石 三右衛門」。
 
戸田利鉄(としかね)【?~1677】
 戸田氏鉄の七男、母は松平(戸田)康長の娘。
 家臣となる。大垣市史 上巻 氏信公時代の藩中諸士、一門並組外諸士の項に「千三百石 戸田権太夫」。
 
戸田信言(のぶとき)【?~1680】
 戸田氏信の二男。
 大垣市史 上巻 氏信公時代の藩中諸士、一門並組外諸士の項に「八百石 戸田三郎左衛門」。
 
戸田 氏春(うじはる)【1634~1672】
 戸田氏信の三男、母は牧野忠成の娘。
 1641年(8)に召されて将軍世子徳川家綱に附属され、御小姓に列しました。1658年(25)に廩米五百俵を賜りました。享年39。
 妻は陸奥弘前藩津軽信義の娘(離婚)。
 
戸田 氏利(うじとし)【1639~1672】
 戸田氏信の四男、母は牧野忠成の娘。
 祖父の氏鉄に養われ、1655年(17)に兄氏信の領地から新墾田五千石を分け与えられ、その後四代将軍徳川家綱に拝謁しました。享年34。
 
戸田信等(のぶとも)【?~1698】
 戸田氏信の六男。
 子孫家臣となる。大垣市史 上巻 延宝の大暇後の藩中諸士 組外の項に「千石(組頭) 戸田内記」。
 
戸田氏方(うじかた)【?~1715】
 戸田氏信の七男、母は牧野忠成の娘。
 子孫家臣となる。大垣市史 上巻 氏西公時代の藩中諸士、組外諸士の項に「百人扶持 戸田市正」。
 
戸田信秋(のぶあき)
 戸田氏方の三男。内記。
 家臣戸田外記信秀(利鉄の子で信等の養子)の養子。
 

3. 大垣藩主、畑村藩主と旗本家 

過去記事のリンク。
(1) 大垣藩主と畑村藩主
 
(2) 旗本:戸田伊三郎家、戸田近江守家
 
(4) 高家
 
参考文献:
 日本名字家系事典(東京堂出版
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション
 大垣市史 上巻(国立国会図書館デジタルコレクション
 大垣市史 通史編 自然・原始~近世
 大垣藩|家老日記(大垣市文化財保護協会)
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。