探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて主に書いていきます。

肥後熊本藩の分家細川家~谷田部藩・長岡内膳家・長岡刑部家~

こんにちは、勘矢です。
今回は前回書いた肥後熊本藩 細川家(肥後熊本藩 細川家 - 探検!日本の歴史)の分家、常陸谷田部藩、熊本藩家老の長岡内膳家・長岡刑部家について調べたことをまとめました。
 
 

1. 常陸谷田部の細川家とは

 細川藤孝の二男 興元が下野国芳賀郡で一万石を与えられたのがはじまりです。1616年常陸国内で六千二百石を加増され、谷田部藩を立藩しました。
 幕末の興貫は新政府側につき戦功がありました。版籍奉還後に谷田部藩知事となり、1871年に藩庁を茂木に移し、廃藩置県を迎えました。
 

f:id:SGM335:20201128113339p:plain

細川氏系図(谷田部藩)
 
 

2. 常陸谷田部藩主一覧

初代 細川 興元(おきもと)【1564~1619】
 細川藤孝の二男、母は沼田光兼の娘 マリア。
 1585年(22)に越中佐々成政攻めで戦功をあげ、1590年(27)の小田原攻めでは兄忠興とともに伊豆韮山城を攻め、文禄・慶長の両役に出陣して戦功をあげました。1600年(37)の関ヶ原の戦いでも兄忠興とともに戦功をあげました。その後、兄忠興と不和となり、忠興の領地豊前小倉から京都に仮寓しました。
 1608年(45)に大御所徳川家康の仲介によって兄忠興と和睦し、翌年以降、二代将軍徳川秀忠に仕え、1610年(47)に下野国芳賀郡内において一万石を与えられ茂木に居所を構えました。1614年(51)の大坂冬の陣では、酒井忠世麾下として出陣し、翌年の夏の陣で戦功を立てたので、1616年(53)に常陸河内国内で六千二百石の加増をされ、一万六千二百石となりました。のちに陣屋を常陸谷田部に移しました。享年56。
 正室筑後柳川藩立花宗茂養女(立花直次の娘)。
 
二代 細川 興昌(おきまさ)【1604~1643】
 細川興元の長男、母は側室 沼田清延の娘。
 1619年に16歳で常陸谷田部藩を相続しました。1632年(29)と翌年に公儀馳走役をつとめました。また、大坂加番、駿府加番などをつとめました。享年40。
 正室伊予大洲藩主 加藤貞泰の娘。
 
三代 細川 興隆(おきたか)【1632~1690】
 細川興昌の長男、母は加藤貞泰の娘。
 1643年に12歳で常陸谷田部藩を相続しました。1653年(22)、1664年(33)、1666年(35)、1680年(49)と4回も公儀馳走役をつとめました。また、大坂加番、駿府加番などをつとめました。
 1681年(50)の上野沼田藩主 真田信利改易のとき、沼田城在番をつとめました。1689年に58歳で隠居しました。享年59。
 正室は下総関宿藩主 牧野信成の娘。
 
四代 細川 興栄(おきなが)【1658~1737】
 細川興隆の長男、母は牧野信成の娘。
 1689年に32歳で常陸谷田部藩を相続しました。1705年(48)、1711年(54)、1717年(60)に公儀馳走役をつとめました。1728年に71歳で隠居しました。享年80。
 正室は近江膳所藩主 本多俊次の娘。
 
細川 興貞(おきさだ)【1694~1709】
 細川興栄の二男。父に先立ちました。享年16。
 
細川 興誠(おきざね)【1687~1728】
 公家 姉小路公量の二男。
 興栄の婿養子となりましたが、1715年(29)に病により廃嫡となりました。享年42。
 正室は細川興栄の娘。
 
五代 細川 興虎(おきとら)【1710~1737】
 細川興誠の長男、母は細川興栄の娘。
 父が廃嫡となったため嫡孫承祖となり、1728年に19歳で常陸谷田部藩を相続しました。享年28。
 正室丹後田辺藩主 牧野英成の娘。英成は信成の孫。
 
六代 細川 興晴(おきはる)【1736~1794】
 細川興虎の長男、母は牧野英成の娘。
 1738年にわずか3歳で常陸谷田部藩を相続しました。1788年に53歳で隠居しました。享年59。
 正室筑後柳川藩主 立花貞俶の娘。
 
七代 細川 興徳(おきのり)【1759~1837】
 細川興晴長男、母は立花貞俶の娘。
 1788年に30歳で常陸谷田部藩を相続しました。1794年(36)に公儀馳走役をつとめました。また、同年に谷田部と茂木に藩校弘道館を創設しました。1834年(76)に藩財政の建て直しを二宮尊徳に依頼し、藩医中村元順を改革主任として尊徳仕法を開始しました。享年79。
 正室は肥後熊本藩主 細川重賢の娘 親。
 
八代 細川 興建(おきたつ)【1798~1855】
 筑後久留米藩世子 有馬頼端の子。
 興徳の婿養子となり、1837年に40歳で常陸谷田部藩を相続しました。
 先代からの尊徳仕法を受け継ぎましたが、藩庁側が尊徳の財政指導を守らなくなったことから不和が生じ、興建が大坂城詰となったため尊徳仕法は一時中止となり、その後再開するも二宮尊徳幕臣に採用されたため断絶しました。
 1852年に55歳で隠居しました。享年58。
 正室は細川興徳の養女(細川興譲の娘、興徳の外孫)鐸。
 
九代 細川 興貫(おきつら)【1832~1907】
 細川興建の長男。
 1852年に21歳で常陸谷田部藩を相続しました。1864年(33)に水戸天狗党による日光東照宮襲撃に備えて警備を命ぜられました。
 1868年(37)の戊辰戦争では新政府軍に加わって京都警固にあたりました。また、上野戦争に敗れた旧幕府軍に対し、茂木領の藩兵が烏山藩・宇都宮藩の藩兵とともに追撃して戦功を立てました。
 1869年(38)に版籍奉還して谷田部藩知事に任ぜられ、1871年(40)に茂木に陣屋を移して茂木藩と改称するも、まもなく廃藩置県となりました。享年76。
 正室は肥後宇土藩主 細川行芬の娘 稲子。
 

f:id:SGM335:20201128114345j:plain

谷田部陣屋跡

f:id:SGM335:20201128114409j:plain

茂木陣屋跡
 
 

3. 熊本藩家老 長岡内膳家

 細川忠興の長男忠隆は、関ヶ原の戦い従軍して戦功をあらわしました。その後、妻の千世(加賀大納言 前田利家の娘)が、母ガラシャをみすてて脱出したことについて弁護したため追放されました。のちに妻とわかれ、出家して京都に住みました。
 忠隆の子孫は長岡を称して熊本藩の家老をつとめました。家禄は六千石。1871年に忠顕が細川姓に復し、忠穀のときに男爵となりました。
 
 

4. 熊本藩家老 長岡刑部家

 熊本藩主 細川忠利の弟 興孝は、1646年に二万五千石を与えられ、1664年に孫の興知のときに長岡を称して熊本藩の家老となりました。家禄は一万石。1870年に細川姓に復し、興増のときに男爵となりました。
 
長岡刑部家の歴代
 初代 細川 興孝(おきたか):熊本藩細川忠興の五男、母は清田氏。
 二代 細川 興之(おきゆき):初代 興孝の子。
 三代 長岡 興知(おきとも):初代 興孝の子。
 四代 長岡 興章(おきあき):三代 興知の子。
 五代 長岡 興行(おきゆき):四代 興章の子。
 六代 長岡 興彭(おきあき):熊本藩主 細川宣紀の七男、母は安野氏。
 七代 長岡 興貞(おきさだ):五代 興行の子。
 八代 長岡 興禮(おきのり):七代 興貞の子。
 九代 長岡 興泰(おきやす):八代 興禮の子。
 十代 細川 興昌(おきまさ):八代 興禮の子。
 十一代 細川 興増(おきなが):九代 興泰の子。
 

f:id:SGM335:20201128114701p:plain

細川(長岡)氏略系図(刑部家)
 
 
参考文献:
 江戸時代全大名家事典(東京堂出版
 日本史諸家系図人名事典(講談社
 江戸大名家血族事典(新人物往来社
 寛政重修諸家譜国立国会図書館デジタルコレクション)
 名門・名家大辞典(東京堂出版
 旧細川刑部邸 パンフレット
 近世中期における公儀馳走役ー幕府諸政策との関連をめぐってー(望田朋史 著 / 学習院史学 第56号)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。