こんにちは、勘矢です。
1. 常陸谷田部の細川家とは
2. 常陸谷田部藩主一覧
初代 細川 興元(おきもと)【1564~1619】
細川藤孝の二男、母は沼田光兼の娘 マリア。
1585年(22)に越中の佐々成政攻めで戦功をあげ、1590年(27)の小田原攻めでは兄忠興とともに伊豆韮山城を攻め、文禄・慶長の両役に出陣して戦功をあげました。1600年(37)の関ヶ原の戦いでも兄忠興とともに戦功をあげました。その後、兄忠興と不和となり、忠興の領地豊前小倉から京都に仮寓しました。
1608年(45)に大御所徳川家康の仲介によって兄忠興と和睦し、翌年以降、二代将軍徳川秀忠に仕え、1610年(47)に下野国芳賀郡内において一万石を与えられ茂木に居所を構えました。1614年(51)の大坂冬の陣では、酒井忠世麾下として出陣し、翌年の夏の陣で戦功を立てたので、1616年(53)に常陸・河内国内で六千二百石の加増をされ、一万六千二百石となりました。のちに陣屋を常陸谷田部に移しました。享年56。
二代 細川 興昌(おきまさ)【1604~1643】
細川興元の長男、母は側室 沼田清延の娘。
三代 細川 興隆(おきたか)【1632~1690】
細川興昌の長男、母は加藤貞泰の娘。
1643年に12歳で常陸谷田部藩を相続しました。1653年(22)、1664年(33)、1666年(35)、1680年(49)と4回も公儀馳走役をつとめました。また、大坂加番、駿府加番などをつとめました。
四代 細川 興栄(おきなが)【1658~1737】
細川興隆の長男、母は牧野信成の娘。
細川 興貞(おきさだ)【1694~1709】
細川興栄の二男。父に先立ちました。享年16。
細川 興誠(おきざね)【1687~1728】
公家 姉小路公量の二男。
興栄の婿養子となりましたが、1715年(29)に病により廃嫡となりました。享年42。
正室は細川興栄の娘。
五代 細川 興虎(おきとら)【1710~1737】
細川興誠の長男、母は細川興栄の娘。
父が廃嫡となったため嫡孫承祖となり、1728年に19歳で常陸谷田部藩を相続しました。享年28。
六代 細川 興晴(おきはる)【1736~1794】
細川興虎の長男、母は牧野英成の娘。
1738年にわずか3歳で常陸谷田部藩を相続しました。1788年に53歳で隠居しました。享年59。
七代 細川 興徳(おきのり)【1759~1837】
細川興晴長男、母は立花貞俶の娘。
1788年に30歳で常陸谷田部藩を相続しました。1794年(36)に公儀馳走役をつとめました。また、同年に谷田部と茂木に藩校弘道館を創設しました。1834年(76)に藩財政の建て直しを二宮尊徳に依頼し、藩医中村元順を改革主任として尊徳仕法を開始しました。享年79。
八代 細川 興建(おきたつ)【1798~1855】
興徳の婿養子となり、1837年に40歳で常陸谷田部藩を相続しました。
先代からの尊徳仕法を受け継ぎましたが、藩庁側が尊徳の財政指導を守らなくなったことから不和が生じ、興建が大坂城詰となったため尊徳仕法は一時中止となり、その後再開するも二宮尊徳が幕臣に採用されたため断絶しました。
1852年に55歳で隠居しました。享年58。
正室は細川興徳の養女(細川興譲の娘、興徳の外孫)鐸。
九代 細川 興貫(おきつら)【1832~1907】
細川興建の長男。
3. 熊本藩家老 長岡内膳家
細川忠興の長男忠隆は、関ヶ原の戦い従軍して戦功をあらわしました。その後、妻の千世(加賀大納言 前田利家の娘)が、母ガラシャをみすてて脱出したことについて弁護したため追放されました。のちに妻とわかれ、出家して京都に住みました。
4. 熊本藩家老 長岡刑部家
熊本藩主 細川忠利の弟 興孝は、1646年に二万五千石を与えられ、1664年に孫の興知のときに長岡を称して熊本藩の家老となりました。家禄は一万石。1870年に細川姓に復し、興増のときに男爵となりました。
長岡刑部家の歴代
二代 細川 興之(おきゆき):初代 興孝の子。
三代 長岡 興知(おきとも):初代 興孝の子。
四代 長岡 興章(おきあき):三代 興知の子。
五代 長岡 興行(おきゆき):四代 興章の子。
六代 長岡 興彭(おきあき):熊本藩主 細川宣紀の七男、母は安野氏。
七代 長岡 興貞(おきさだ):五代 興行の子。
八代 長岡 興禮(おきのり):七代 興貞の子。
九代 長岡 興泰(おきやす):八代 興禮の子。
十代 細川 興昌(おきまさ):八代 興禮の子。
十一代 細川 興増(おきなが):九代 興泰の子。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
旧細川刑部邸 パンフレット
近世中期における公儀馳走役ー幕府諸政策との関連をめぐってー(望田朋史 著 / 学習院史学 第56号)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。