こんにちは、勘矢です。
今回は山城淀藩 稲葉家ついて調べたことをまとめました。
1. 淀藩稲葉家とは
二代正勝は春日局の子であったこともあり、はじめ父とは別に常陸国柿岡を与えられ、老中に列しました。家督相続後、下野真岡藩四万石を経て相模小田原藩十一万石となり、将来を期待されましたが早くに亡くなりました。
五代正知のとき山城淀藩十万二千石となり、廃藩置県までこの地で続きました。
2. 淀藩系稲葉家当主
初代 稲葉 正成(まさなり)【1571~1628】
林正三(政秀)の二男、母は安藤丹後守娘。
1584年(14)に小牧長久手の戦いに出陣、1592年(22)の文禄の役には小早川秀秋に属し、のちに家老となって五万石を領しました。1600年(30)の関ヶ原の戦いでは、石田方に参陣しようとする秀秋を諫め、決戦時に石田方を裏切りました。その後、秀秋にしばしば諫言するも聞き入れなかったため、秀秋の許を去りました。
1618年(48)に越後高田藩主 松平忠昌(結城秀康の二男)の家老となり、一万石を加増されて越後糸魚川 二万石となりました。1623年(53)に忠昌が越前北ノ庄(福井)に転封する際に辞して従わず江戸に退去し、のちに嫡男 正勝の領地常陸柿岡で蟄居しました。
1627年(57)に再び召されて下野真岡藩 二万石となりました。享年58
二代 稲葉 正勝(まさかつ)【1597~1634】
1604年(8)に徳川家光にに近侍し、御小納戸、御徒頭、御小姓番頭、御書院番頭を歴任しました。1623年(27)に常陸国柿岡において五千石を与えられて老中に列し、1624年(28)に常陸国真壁郡において五千石を加増され、合わせて一万石となり、柿岡藩を立藩しました。翌年に下野国内で一万石を加増されました。
1628年に32歳で家督相続し、父の所領も合わせて下野真岡藩 四万石となりました。1632年(36)に肥後熊本藩主 加藤忠広の改易に際して熊本城受取りの大役を果たし、同年、四万五千石を加増され、相模小田原藩 八万万五千石となりました。翌年、領内を大地震が襲い、大被害に見舞われました。震災からの復興に尽力するも、1年余りで没しました。享年38。
正室は旗本 山田重利の娘。
三代 稲葉 正則(まさのり)【1623~1696】
稲葉正勝の子、母は山田重利娘。
1634年に12歳で相模小田原藩を相続し、春日局の兄 斎藤時宗らが後見役となりました。翌年に従弟の正能に新墾田三千石、正定に新墾田二千石を分与しました。1657年(35)に老中に就任し、一万石を加増されました。1681年(59)に辞職する際に一万五千石の加増を受けて十一万石となりました。1683年に61歳で隠居しました。享年74。
四代 稲葉 正往(まさゆき)【1640~1716】
1683年に44歳で相模小田原藩を相続し、弟の正倚に七千石、正員に二千石、正辰に新墾田三千石、正直に新墾田二千石を分知しました。これまでの三万石は上知され、京都所司代在任中の賂料として、武蔵・相模・駿河3ヶ国内の二万石を摂津・河内国内に移されました。1685年(46)に辞職し、越後高田藩 十万二千石に転封となりました。
1701年(62)に老中に就任すると下総佐倉藩 十万二千石に転封となりました。1704年(65)に前将軍家綱二十五回忌法会の総奉行をつとめました。1707年(68)に老中を辞職し、同時に隠居しました。享年77。
五代 稲葉 正知(まさとも)【1685~1729】
稲葉正往の二男。
1707年に23歳で下総佐倉藩を相続し、弟正佐に新墾田三千石を分与しました。1723年(39)に山城淀 に転封となりました。享年45。
稲葉 正貞(まささだ)
稲葉正往の長男、母は小笠原忠雄の娘。病弱のため、嫡を辞しました。
六代 稲葉 正任(まさとう)【1714~1730】
稲葉正知の三男。
1729年に16歳で山城淀藩を相続しました。享年17。
七代 稲葉 正恒(まさつね)【1706~1730】
分家 稲葉正倚の三男。
1714年にわずか9歳で家督相続し、寄合に列しました。
1730年(25)に宗家正任が世子なく没すると養嗣子となり、山城淀藩を相続するもわずか二ヶ月で没しました。享年25。
八代 稲葉 正親(まさちか)【1692~1734】
下野大田原藩主 大田原政清の六男 晴川の子。
はじめ、分家稲葉正直の養子となり、1723年に歳で家督相続しました。
正室は旗本 稲葉正直養女(柴田某の娘)。
九代 稲葉 正益(まさよし)【1718~1771】
稲葉正親の長男、母は稲葉正直の養女。
1734年に17歳で山城淀藩を相続しました。1747年(30)に奏者番・寺社奉行を兼任し、1750年(33)に両職を免ぜられました。1756年(39)に落雷のため淀城が焼失したため、幕府から一万両を再建のために貸与されました。享年54。
十代 稲葉 正弘(まさひろ)【1747~1773】
稲葉正益の長男、母は伊達吉村の娘。
1771年に25歳で山城淀藩を相続しました。享年27。
十一代 稲葉 正諶(まさのぶ)【1749~1806】
稲葉正益の二男。
兄の養嗣子となり、1773年に25歳で山城淀藩を相続しました。1781年(33)に奏者番、1787年(39)に寺社奉行を兼任しましたが、翌年に両職とも免ぜられました。1790年(42)に禁裏御所方造営の警固をつとめました。1802年(54)に大坂城代、1804年(56)に京都所司代となり、1806年(58)に在職中に没しました。享年58。
十二代 稲葉 正備(まさなり)【1779~1815】
稲葉正諶の二男、母は松平宗衍の娘。
1806年に28歳で山城淀藩を相続しました。享年37。
正室は備後福山藩主 阿部正倫の娘。
十三代 稲葉 正発(まさはる)【1801~1823】
稲葉正備の長男、母は阿部正倫の娘。
1815年に15歳で山城淀藩を相続しました。享年23。
正室は土佐高知藩主 山内豊策の娘。
十四代 稲葉 正守(まさもり)【1804~?】
稲葉正諶の七男。
正室は伊勢津藩世子 藤堂高崧の娘。
十五代 稲葉 正誼(まさよし)【1827~1848】
正守の養嗣子となり、1842年に16歳で山城淀藩を相続しました。享年22。
十六代 稲葉 正邦(まさくに)【1834~1898】
正誼の養嗣子となり、1848年に15歳で山城淀藩を相続しました。1863年(30)に京都所司代となり、同年の八月十八日の政変には京都守護職の松平容保に協力して過激派を抑えました。1864年(31)に老中に就任しました。同年の禁門の変、第一次長州征伐に出陣しました。1865年(32)に老中を辞任するも翌年再任され、徳川慶喜が十五代将軍に就任すると、その幕政改革に参画しました。1867年(34)に国内事務総裁を兼務しました。
1868年(35)の1月に鳥羽伏見の戦いが起こると旧幕府軍は淀城を抗戦の拠点を淀城にしようとするも淀藩家老は入城を拒否し、新政府軍に従軍して旧幕府軍に打撃を与えました。翌月、老中としての残務処理を終えて、最後の老中として辞任しました。その後、一時謹慎しました。
3. 淀藩稲葉家の養子縁組
稲葉家の幕末の藩主正誼と正邦は他家から養子に入りました。
十五代 正誼は越後高田藩の榊原家出身です。稲葉家と榊原家の関係は、仙台藩伊達家、岡山藩池田家を介した遠縁です。九代藩主 正益の正室は仙台藩伊達家の姫で、その姉妹が岡山藩主 池田継政の正室となり、その孫娘が榊原政敦の正室となりました。政敦の孫が正誼です。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。