こんにちは、勘矢です。
1. 美濃清水藩 稲葉家
稲葉一鉄の庶長子 重通は織田信長・豊臣秀吉に仕え、1584年の小牧・長久手の戦いや1587年の九州平定に従軍しました。1588年に父一鉄が没すると遺領の一万二千石を相続して美濃清水城主となりました。1590年の小田原の陣に出陣し、1592年の文禄の役では肥前名護屋城に滞陣しました。晩年は秀吉の御伽衆に列しました。また、重通は春日局の養父となりました。その子通重が不行跡のために絶家となりました。
初代 稲葉 通重(みちしげ)【?~1618】
稲葉重通の二男、母は吉田浄忠の娘。
兄利貞が伊勢田丸城主で外祖父の牧村政倫の養子となったので、重通の跡は通重が継ぎました。関ヶ原の戦いでは、はじめ宗家の稲葉貞通とともに西軍に属しましたが、貞通が東軍に寝返ったので通重も行動を共にしました。
2. 丹波福知山藩 稲葉家
重通の長男利貞は伊勢田丸城主で外祖父の牧村政倫の養子となり牧村政治と名乗りました。政治は文禄の役で戦死し、遺児の牛之助が幼少であったため、政治の弟道通が家督相続しました。その子紀通は摂津中島藩を経て丹波福知山藩に移封されました。苛政を布いたため、その恨みから謀反の風聞をたてられ、近隣諸藩は幕府に注進するとともに藩領境まで出兵してきたため、紀通は乱心して自刃し、絶家となりました。
初代 稲葉 道通(みちとお)【1570~1607】
稲葉重通の子、母は牧村政倫の娘。
兄の牧村政治が文禄の役で戦死し、その子が幼少のため一時的に家督相続し、伊勢岩出城主となりました。隣接する九鬼嘉隆との間で木材海上運輸課税について係争し、1599年(30)に徳川家康の裁断によって道通の勝訴となりました。しかし嘉隆の恨みを買い、翌年会津の上杉征伐に出陣で不在の隙に九鬼勢の攻撃を受けました。留守隊は抗戦し、道通も急遽帰城して戦い勝利しました。その後二万石の加増を受けて四万五千七百石で田丸藩を立藩しました。
二代 稲葉 紀通(のりみち)【1603~1648】
稲葉道通の二男、母は日根野重之娘
1607年にわずか5歳で伊勢田丸藩を相続しました。松平(奥平)忠明の娘を正室に迎え、大坂の両陣には義父に属して出陣しました。1616年(14)に義父の忠明が摂津大坂藩主となると、紀通は摂津中島藩に転封となりました。
1624年(22)に丹波福知山藩に移封されました。1648年(46)に隣国の丹後宮津藩主 京極高広に百匹のブリを所望したところ、高広はわざと頭を刎ねたブリを送りつけてきました。侮辱されたと激昂した紀通は、たまたま領内を通りかかった京極家の飛脚を撃ち殺そうしましたが、標的となったのは京極家でなく他家の飛脚でした。この凶行はたちまち周辺の藩に知れ渡り、近隣諸藩は藩領境まで出兵しました。紀通は出兵を聞いて短慮な行動を取り、鉄砲にて自らの腹を撃ち抜きました。享年46。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
事典にのらない江戸大名の晩年と隠居(新人物往来社)
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