こんにちは、勘矢です。
今回は斎藤利三の孫が養子入りした旗本 町野氏について調べたことをまとめました。
1. 旗本 町野氏とは
戦国時代末期の繁仍(しげより)・幸和父子は蒲生氏郷に仕えました。氏郷に従って小田原征伐や九戸政実の乱に出陣しました。氏郷の孫の忠郷のときに蒲生家が無嗣断絶となると牢人となって江戸に出て、妻祖心尼が春日局の親族であったことから、1632年に召されて五千石の旗本となりました。幸和は、斎藤利三の孫 幸長を婿養子に迎えました。幸長の孫の幸重が、父 幸長に対する不孝が厳重に罰せられて所領没収となりました。
幸和の養女は、三代将軍 徳川家光の側室 お振の方(自証院)で、家光の長女 千代姫を産みました。
幸重の弟からはじまる町野五郎右衛門家(五百石)は、町野氏と斎藤氏の血筋を受け継ぎました。
他の分家として、幸長の叔父三重からはじまる町野内記家(八百石)がありました。町野繁仍の二男 三重(みつしげ)は蒲生秀行に仕えて、陸奥国伊達郡福島の郡村を知行したことから郡を称しました。その子三明(みつあき)は町野に復し、甲府藩主 徳川綱重に仕えました。その子 三安は綱重の子 綱豊に仕え、綱豊が将軍家に養子入りすると旗本となりました。また、内記家からの分家は町野三子太郎家、町野鎚之丞家(絶家)、町野金太郎家がありました。
お振の方(自証院)
蒲生氏郷の旧臣 岡重政の子といわれる。1626年に幕臣 町野幸和の養女として召し出され、三代将軍徳川家光の側室となり、1637年に長女 千代姫を産みました。翌年千代姫は尾張徳川家の光友と縁組し、1639年に入輿しました。1640年に没し、市ヶ谷の自証院に葬られました。
2. 町野一族
(1)旗本:町野酒之丞家
(寛政年間までの当主)
初代 町野 幸和(ゆきかず)【?~1647】
町野繁仍の長男。
1634年に御鉄砲頭となり、同心五十人を預けられ、甲斐国内で五千石を賜りました。
妻は牧村利貞の娘 祖心尼。
二代 町野 幸長(よしなが)【?~1701】
斎藤利宗の三男、母は加藤清正の家臣 松下意綱の娘。
幸和の婿養子となり、1640年に将軍 徳川家光に初お目見えし、以後、番をつとめ、進物役などに任じられました。
1647年に家督相続しました。1649年に越後国村上城を松平(越前)直矩が賜るときに、蒔田長広とともに現地に赴きて城引渡し役をつとめました。1653年に辞職し、寄合に列しました。翌年、常陸国下館城を守衛しました。1658年に定火消となり、1661年に御書院番頭にすすみました。1678年に辞職し、領地を甲斐国内から相模国内に移されました。1683年に隠居し、幸宣と改めました。
妻は町野幸長の娘。
三代 町野 幸重(よししげ)【?~?】
町野幸長の二男。
1683年に家督相続し、このとき五百石を弟幸次に分け与えたので四千五百石となりました。1697年に御使番となり、同年、井上正岑が丹波亀山城を賜るとき、現地に赴き城引渡し役をつとめました。1699年に新番頭となり、1701年に渡辺基綱が大坂定番となるとき、現地に赴き仰せを伝えました。
その後、父に対する不孝の行いあるために領地を治められ、加賀大聖寺新田藩主 前田利昌に預けられました。
妻は和泉岸和田藩主 岡部行隆の養女(旗本 岡部豊明の娘)、後妻は旗本 稲葉正吉の娘。
町野 幸通(よしみち)【?~?】
町野幸長の五男。名はのちに幸政(よしまさ)。尾張家に仕え、のちに辞して兄 斎藤利有の許にいました。
(2)旗本:町野五郎右衛門家
(寛政年間までの当主)
初代 町野 幸次(よしつぐ)【1667~1725】
町野幸長の三男、母は町野幸和の娘。
妻は旗本 嶋一信の娘、後妻は旗本 赤井忠広の娘。
二代 町野 幸道(よしみち)【1693~1763】
町野幸次の長男、母は嶋一信の娘。
妻は旗本 松平(福釜)康門の娘。
町野 幸充(よしみつ)【1723~1759】
町野幸道の長男。父に先立ち没しました。享年37。妻は旗本 金田正英の娘。
三代 町野 幸行(よしつら)【1747~1802】
町野幸充の長男、母は金田正英の娘。
1763年に17歳で祖父の跡を継ぎました。1774年(28)に御書院番となり、1796年(50)に組頭となりました。享年56。
妻は稲葉通昆の娘、後妻は金田正美の娘(離婚、幸行の生母の姪)、後々妻は旗本 最上義行の娘(交代寄合 最上家の分家)。
四代 町野 幸寧(よしやす)【1777~?】
旗本 河野通久の七男、母は蜷川親音の娘。左近。
妻は町野幸行の娘。
(3)旗本:町野内記家
(寛政年間までの当主)
初代 町野 三安(みつやす)【?~1718】
町野三明の長男。
二代 町野 三清(みつきよ)【1711~1745】
妻は旗本 武島茂勝の娘。
三代 町野 三興(みつおき)【1729~1760】
町野三清の長男、母は武島茂勝の娘。
妻は小栗又左衛門の娘。
四代 町野 三彰(みつあきら)【1743~1789】
町野三清の二男、母は武島茂勝の娘。
妻は鈴木正重の娘。
五代 町野 三円(みつのぶ)【1764~?】
(4)旗本:町野三子太郎家
(寛政年間までの当主)
初代 町野 三陸(みつみち)【?~1707】
町野三治の長男、母は新見正次の娘。
妻は加賀大聖寺藩前田家の家臣 小川兵衛の娘。
二代 町野 三郷(みつさと)【?~1712】
三代 町野 三興(みつおき)【1697~1767】
町野三陸の二男。
兄三郷の養子となり、1712年に16歳で家督相続しました。御納戸番士、西ノ丸新番、御金奉行などをつとめました。享年71。
妻は旗本 嶋正祥の娘。
四代 町野 三和(みつかず)【1727~1780】
町野光興の長男、母は 嶋正祥の娘。
1767年に41歳で家督相続しました御納戸番士、新番をつとめました。享年54。
妻は旗本 山田勝之の娘、後妻は旗本 越智道品の娘。
五代 町野 三成(みつなり)【1764~?】
(5)旗本:町野鎚之丞家
(寛政年間までの当主)
初代 町野 三雄(みつおき)【?~1711】
町野三郷の長男。甲府藩に仕え、1704年に西ノ丸の御小姓となり、蔵米四百五十俵を賜りました。
二代 町野 鎚之丞【1711~1717】
町野三雄の長男。1711年にわずか1歳で家督相続し、寄合に列しました。享年7。無嗣断絶となりました。
(6)旗本:町野金太郎家
(寛政年間までの当主)
初代 町野 三就(みつなり)【?~1705】
郡三重の三男。甲府藩に仕えて、持筒頭などをつとめました。1704年に西ノ丸桐間番士となり、蔵米四百俵を賜りました。
二代 町野 清福(きよよし)【1682~1752】
三代 町野 清安(きよやす)【1702~1770】
町野清福の長男。
妻は旗本 河野通寿の娘。
四代 町野 清諱(きよいみ)【1718~1758】
旗本 宇都野正富の二男。
妻は町野清安の娘、後妻は旗本 池田政相の娘。
五代 町野 清安(きよやす)【1755~1786】
町野清諱の長男、母は池田政相の娘。
妻は御代官 藤沼時房の娘。
六代 町野 清輝(きよてる)【1770~?】
町野清安の長男、母は藤沼時房の娘。1786年に17歳で家督相続しました。
※旗本各家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
日本名字家系事典(東京堂出版)
家紋・旗本八万騎(高橋賢一著/秋田書店)
増補改訂版 日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本(中経出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。