探検!日本の歴史

趣味で調べた戦国から江戸時代の大名、城、藩、旗本などについて書いていきます。

旗本 三好氏

こんにちは、勘矢です。
今回は前回( 戦国 三好一族 - 探検!日本の歴史)の続きで旗本三好氏ついて調べたことをまとめました。
 
 

1. 旗本三好氏

 旗本三好氏は、三好三人衆の三好 宗渭の弟 為三からはじまる家です。また、為三の長男 可正は別に知行を与えられ分家しました。為三の跡は孫の長富が継ぎました。
 

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旗本三好氏略系図
 
 

(1) 旗本:三好捨三郎家

(寛政年間までの当主)
初代 三好 為三(いさん)【1536~1631】
 三好宗三の子。寛政重修諸家譜では、一任(まさとう)と記載されています。
 兄三好宗渭の跡を継ぎました。織田信長に降伏し、1570年(35)に摂津国内で知行地を賜りました。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、1600年(65)の関ヶ原の戦いでは徳川家康に従いました。その後、河内国内で千四百石余の加増があり、合わせて二千二十石余を知行しました。
 大坂の両陣にも80歳近くの高齢ながら供奉し、御帰陣のときに河内国を案内し、家康の御前に召されて国俗や地理のことを言上しました。その後、二代将軍 徳川秀忠の御伽衆に列しました。享年96。
 
二代 三好 長富(ながとみ)【1611~1696】
 三好可正の長男。為三の孫。寛政重修諸家譜では可正の長男となっていますが、没年から生年を計算すると弟勝政より年下となります。
 1632年に22歳で相続し、のちに御書院番に列しました。1650年(40)に西ノ丸の御小姓組となり、のちに本丸に移動となりました。
 1661年(51)に東叡山本院の普請奉行をつとめ、1664年(54)に肥前国富岡城を戸田忠昌が賜るときに、大久保長昌とともに現地に行き、城引渡しの役を勤めました。
 1672年(62)に御使役に転じ、翌年に御目付として日光山に赴きました。1678年(68)に遠江国浜松城を青山宗俊が賜るときに現地に行き、城引渡しの役を勤めました。1691年に81歳で隠居しました。享年86。
 妻は旗本 三上季正の娘。
 
三代 三好 長広(ながひろ)【1656~1711】
 三好長富の長男、母は三上季正の娘。
 1691年に36歳で相続し、小普請となりました。1697年(42)に御書院番に列し、翌々年に御使番に移りました。備後国福山に赴き御目付のことをつとめました。
 1702年(47)に丹波国亀山城を青山忠重が賜るとき、現地に赴き、城引渡し役をつとめました。1704年(49)に御目付に移り、1707年(52)に奈良奉行に進み、奈良において没しました。享年56。
 妻は旗本 近藤用高の娘。
 
四代 三好 長栄(ながひで)【1701~1737】
 三好長広の長男。
 1711年に11歳で相続し、寄合に列しました。享年37。
 妻は交代寄合 戸川逵富の娘。
 
五代 三好 倚長(よりなが)【1721~1774】
 三好長栄の長男、母は戸川逵富の娘。
 1737年に17歳で相続しました。1745年(25)に御小姓組に列し、1747年(27)に陸奥国棚倉城を小笠原長恭が賜るとき、岡部元良とともに現地に赴き、城引渡し役をつとめました。
 1750年(30)に御使番に転じました。1761年(41)に東海地方を巡見しました。翌年につとめを辞職して寄合に列しました。享年54。
 妻は交代寄合 戸川逵索の娘。戸川逵索は倚長の母方の伯父。
 
六代 三好 長義(ながよし)【1756~?】
 三好倚長の長男、母は戸川逵索の娘。
 1774年に19歳で相続しました。1780年(25)に中奥の番士に列しました。1787年(32)に番を辞職しました。1791年に36歳で隠居しました。
 妻は旗本 米倉昌長の娘。
 
七代 三好 長逵(ながみち)【1775~?】
 三好長義の長男、母は米倉昌長の娘。
 1791年に17歳で相続しました。
 妻は旗本 津田正補の娘。
 
 

(2) 旗本:三好吉五郎家

(寛政年間までの当主)
初代 三好 可正(よしまさ)【1568~1634】
 三好為三の長男。
 慶長年間に徳川家康に仕え、御給仕番をつとめて千石を賜りました。1600年(33)の関ヶ原の戦いに供奉しました。大坂の両陣に供奉し、その後、先の千石を大和国内において知行地として賜りました。のちに御書院番となりました。享年67。
 
二代 三好 勝正(かつまさ)【1607~1658】
 三好可正の二男。寛政重修諸家譜では可正の二男となっていますが、没年から生年を計算すると兄長富より年上となります。
 1634年に28歳で相続しました。のちに御小姓組に列しました。享年52。
 妻は旗本 岡部忠豊の娘、後妻は旗本 織田信当の娘(離婚)。
 
三代 三好 長賢(ながかた)【1634~1694】
 三好勝正の長男、母は岡部忠豊の娘。
 1658年に25歳で相続しました。このとき、弟の勝安に三百石を分け与えたので、七百石を知行しました。1669年(36)に御小姓組に列しました。享年61。
 妻は旗本 神尾守政の娘、後妻は旗本 松田勝盛の娘、後々妻は旗本 大沢基房の娘。
 
四代 三好 長常(ながつね)【1676~1725】
 三好長賢の長男、母は大沢基房の娘。
 1694年に19歳で相続しました。1708年(33)に御書院番に列しました。1711年(36)に桐間番に移り、その後御小納戸に転じ、1716年(41)に御書院番に復しました。享年50。
 妻は旗本 堀正勝の娘。
 
五代 三好 長憙(ながよし)【1715~1783】
 三好長常の長男、母は堀正勝の娘。
 1725年に11歳で相続しました。1736年(22)に西ノ丸の御書院番に列しました。享年69。
 妻は川勝氏合の娘。寛政重修諸家譜の川勝氏の項では氏令となっている。
 
六代 三好 長興(ながおき)【1745~?】
 旗本 田付景厖の三男、母は長谷川長賢の娘。寛政重修諸家譜の三好長興の項では、田付が田村と誤記されている。
 1777年(33)に西の丸の御小姓組となり、1779年(35)より本丸につとめ、1781年(37)に西の丸に戻りました。
 1783年に39歳で相続しました。1796年(52)若君(徳川家慶)に附属となり、西の丸につとめました。
 妻は三好長憙の養女(旗本 川勝氏方の娘)、後妻は旗本 河野通次の娘。
 
三好 長恭(ながゆき)【1768~?】
 旗本 曾我儔祐の三男、母は筒井義武の娘。
 1791年(24)に御書院番に列しました。
 妻は三好長恭の娘。
 
 

(3) 旗本:三好久四郎家

三好 勝安(かつやす)【?~1707】
 三好勝正の二男、母は岡部忠豊の娘。
 1658年に父の遺領から三百石を分け与えられました。1671年に御書院の番士に列しました。1691年に狂気を理由に知行地を収められました。
 
 

2. 三好氏の婚姻関係

(1) 旗本:三好捨三郎家

 二代 長富は、旗本 三上季正の娘を妻に迎えました。季正の母神戸は寛政重修諸家譜によると春日局の妹で、夫季直の死後、徳川秀忠正室お江に仕えました。
 
 三代 長広は、旗本 近藤用高の娘を妻に迎えました。この近藤家は2017年の大河ドラマおんな城主 直虎」に登場した近藤康用の子孫です。
 
 四代 長栄は、交代寄合 戸川逵富の娘を妻に迎え、子の五代 倚長は、母の姪(兄逵索の娘)を妻に迎えて、戸川家と重縁を結びました。
 
 六代 長義は、旗本 米倉昌長の娘を妻に迎えました。この米倉家は武蔵金沢藩 米倉家の分家です。
 
 七代 長逵は、旗本 津田正補の娘を妻に迎えました。津田正補の妻は三好倚長の娘です。
 

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三好氏の婚姻関係図

(2) 旗本:三好吉五郎家

 二代 勝正は、旗本 岡部忠豊の娘を妻に迎えました。後妻には旗本 織田信当の娘を迎えましたが、離婚となりました。信当の父は織田信包で、織田信長の弟になります。
 
 三代 長賢は、旗本 神尾守政の娘を妻に迎えました。その後、旗本 松田勝盛の娘を後妻に迎えました。松田勝盛の妻は、本家の三好長富の娘です。長賢と松田勝盛の年齢差は8歳なので、20歳以上の年の差があったのでは考えられます。さらにその後、旗本 大沢基房の娘を三度目の妻に迎えました。後継ぎの長常は、大沢基房の娘との子です。
 
 四代 長常は、旗本 堀正勝の娘を妻に迎えました。この堀家は信濃飯田藩 堀家の一族です。
 
 五代 長憙は、旗本 川勝氏令(氏合)の娘を妻に迎えました。氏令の子 氏方の娘を養女に迎え、初めに旗本 赤井直房の三男 直船を婿養子に迎えましたが、病により実家に戻りました。その後、旗本 小笠原信用の三男 直之丞を婿養子にしましたが、直之丞は父に先立ちました。さらに、旗本 田付景厖の三男 長興を婿養子に迎え、跡を継ぎました。
 
参考文献:
 寛政重修諸家譜(國民圖書 / 国立国会図書館デジタルコレクション
 徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社
 
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。