こんにちは、勘矢です。
今回は勝小吉の実家の男谷家について調べたことをまとめました。
1. 男谷氏
男谷氏の家伝によると佐々木判官高氏の末孫で、はじめ山上を称しのちに男谷に改めたという。
米山検校は越後国刈羽郡長島村(新潟県柏崎市)農民出身の盲人で、江戸に出て検校となり、鍼術や大名貸しなどで財をなした。検校は旗本男谷家の株を買い、末子の平蔵(忠恕)に継がせた。1786年に御目見以上の家筋に昇格した。
初代 男谷 忠恕(ただひろ)【1754~1828】
米谷検校の子。
1776年(23)西ノ丸御持筒の与力に召し加えられ、その後支配勘定に転じました。1786年(33)に御勘定となり、御目見以上の家筋に昇格しました。1789年(36)に故あって一時出仕を止められた。
1803年(50)に勘定組頭、1812年(59)に御殿詰となり、翌年辞職しました。享年75。
妻は徳井氏。
二代 男谷 思孝(しこう)【1777~1840】
男谷忠恕の長男、母は徳井氏。通称は彦四郎、号は燕斎(えんさい)。
1797年(21)に御勘定となり、1821年(45)以降、代官として越後国水原や信濃国中野へ赴きました。1823年(47)に二ノ丸留守居に転じ、1825年(49)に西ノ丸裏門番頭、1837年(61)に小十人頭となりました。享年64。
妻は男谷信連の娘 遊。
三代 男谷 信友(のぶとも)【1798~1864】
男谷忠之丞の子。通称は精一郎(せいいちろう)。
同族の男谷思孝の婿養子となりました。団野源之進に入門して直心流影流剣法を学び、文政年間(1820年代頃)に団野の道場を継ぎました。弟子に島田虎之助や榊原鍵吉。
1831年(34)に書院番士、1843年(46)に御徒頭、1855年(58)に先手御弓頭となりました。同年に講武所が設置されると頭取を兼ね、翌年に講武所剣術師範役となり、御先手の勤めは免ぜられた。1861年(64)に御先手格講武所師範役となり、1863年(66)に西ノ丸留守居格、講武所奉行並となりました。享年67。
妻は男谷思孝の娘 鶴。
男谷 鉄太郎 【1817~1855】
男谷信友の子。父に先立ち没しました。享年39。
四代 男谷 忠友(ただとも)【1846~1916】
男谷鉄太郎の子。通称は勝三郎。
2. 男谷家・勝家の縁戚関係
(1)竹内氏
勝小吉は従弟竹内平右衛門信氓の娘を養女にして、六郷忠五郎に嫁がせた。信氓とその父信将は代官をつとめた。
(2)松坂氏
則信の婿養子になったのが則方で、1836年に勘定より越後国水原の代官となり、その後、甲府に移り、甲府御蔵掛を兼帯した。1842年に西ノ丸切手門番之頭に転じた。1856年に孫の三郎左衛門に家督を譲った。
(3)青木氏
勝元良の実家青木家は、戦国武将 武田信玄の母の実家大井家から分かれた。元良は母の実家に婿養子となった。その婿養子に男谷家から小吉が入った際、伯父の青木満真(元良の長兄)が判元見届を取持した。
(4)大岡氏
元良の次兄 義方は大岡家に婿養子に入った。その娘が大奥老女となった滝山で、勝小吉とは従兄妹の関係となる。
(5)佐久間象山
参考文献:
寛政譜以降 旗本百科事典 第1巻、第2巻、第5巻(東洋書林)
家紋・旗本八万騎 高橋賢一著(秋田書店)
日本人名大辞典(講談社)
日本名字家系事典(東京堂出版)
カラー版 徹底解剖 大奥 将軍のために用意された秘密の空間(新星出版社)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。