こんにちは、勘矢です。
今回は医家の野間氏について調べたことをまとめました。
1. 医家 野間氏
宗印の子玄琢は、父と親しかった曲直瀬玄朔の門下に入って医道を学びました。1626年に上洛した二代将軍徳川秀忠に拝謁し、その命により江戸に至りました。その後、三代将軍徳川家光の上洛を契機に、江戸と京都を隔年で行き来するようになりました。1638年に東福門院(秀忠の娘 和子)の附属になって、幕府より廩米五百俵を賜りました。
三竹の孫三弥が早世したため家禄を納められましたが、三竹の弟成之に名跡相続を許され、廩米二百俵を賜りました。
2. 医家 野間氏の当主
(寛政年間までの当主)
初代 野間 玄琢(げんたく)【1590~1645】
野間宗印の長男。名は成岑(せいいん)。
1610年(21)に法橋となり、しばしば禁裏への診察を行いました。1617年(28)に法眼となり、1620年(31)に寿昌院と号し、1623年(34)に法印に叙せられました。1626年(37)に二代将軍徳川秀忠に拝謁し、それ以降江戸と京都を行き来しました。1638年(49)に東福門院の附属となって、廩米五百俵を賜りました。享年56。
妻は神崎某の娘。
二代 野間 三竹(さんちく)【1608~1676】
野間成岑の長男、母は神崎某の娘。名は成大(せいだい)。
1636年(29)に法橋、1638年(31)に法眼へと進みました。1640年(33)に奥医となって東福門院に附属となり、隔年で江戸と京都を行き来しました。
1646年に39歳で相続しました。1668年(61)に法印に叙せられました。享年69。
妻は宇都宮藩主本多正純の世子 本多正勝の娘。
三代 野間 成良(せいりょう)【1657~1689】
野間成大の長男、母は本多正勝の娘。
1676年に20歳で相続し、寄合となって京都と江戸を隔年で行き来しました。享年33。
四代 野間 三弥【1680~1690】
美濃下笠の代官 石原正利の二男、母は美濃大垣藩主 戸田氏西の養女。三弥の母方の大叔父の妻が先代成良の姉。
1690年にわずか11歳で相続し、寄合となって京都に住むが、同年に早世しました。享年11。
美濃大垣藩についてはこちらもご覧ください。
五代 野間 成之(せいし)【1627~1704】
野間成岑の二男、母は神崎某の娘。
1690年(64)に召されて名跡を相続し、廩米二百俵を賜り、寄合に列しました。1695年に69歳で隠居しました。享年78。
六代 野間 成恭(せいきょう)【1678~1736】
長谷川氏の子。
1695年に18歳で相続しました。1698年(21)に番医となりました。享年59。
妻は旗本 土屋知治の娘。
七代 野間 成育(せいいく)【1706~1776】
奥山氏の子。
1736年に31歳で相続し、寄合に列しました。1742年(37)に番医となり、1755年(50)に番を辞職しました。1768年に63歳で隠居しました。享年71。
妻は医家 吉田宗仲の娘(離婚)。
野間 成春(せいしゅん)
野間成恭の長男。
1755年に九代将軍徳川家重に拝謁し、1759年に逐電しました。
妻は旗本 赤井忠芳の娘(離婚)。
八代 野間 成因(せいいん)【1747~?】
野間成恭の二男、母は児玉氏。
1768年に22歳で相続しました。1775年(29)に番医に列しました。1785年(39)に番を辞職し、1794年に48歳で隠居しました。
妻は奥医 和田正直の娘。
九代 野間 成式(せいしき)【1773~?】
旗本 野間正甫の三男、母は野間成育の娘。
1794年に22歳で相続しました。。
妻は野間成因の娘。後妻は旗本 大橋親號の娘、親號は成因の弟。
野間正甫の野間家については、こちらをご覧ください。
参考文献:
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。