こんにちは、勘矢です。
1. 尾張徳川家
明治維新後、最後の藩主 義宜には子がなく、実父の慶勝が尾張家を再相続した。再相続した慶勝の跡は、高松松平家(水戸藩分家)から義礼を婿養子に迎え、1884年に侯爵となった。義礼は元福井藩主松平春嶽の五男義親を婿養子に迎えた。
義親はマレーで虎狩りをし、「虎狩りの殿様」としても知られる。1935年に開館した徳川美術館では、徳川家康の遺品をはじめ、尾張徳川家に伝来した遺愛品などが展示されている。尾張徳川家に伝わる大雛壇飾りは圧巻。
尾張藩の居城だった名古屋城では、2009年から本丸御殿の復元工事が始まり、3期に渡って整備された。2013年に玄関・表書院、2016年に対面所・下御膳所が公開され、2018年に上洛殿の完成をもって本丸御殿の復元が完了した。
徳川 義宜(よしのり)【1858~1875】
徳川 慶勝(よしかつ)【1824~1883】
夫人:二本松藩主 丹羽長富の三女 矩子。
徳川 義礼(よしあきら)【1863~1908】
高松藩主 松平頼聡の二男。
徳川 義親(よしちか)【1886~1976】
松平慶永の五男。
夫人:徳川義礼の長女 米子。
2. 尾張徳川家分家
徳川 義恕(よしくみ)【1878~1946】
徳川慶勝の十一男。
陸軍歩兵少尉として日露戦争に出征。その後、侍従。
3. 紀州徳川家
最後の藩主茂承は紀州藩の分家西条藩の出身で、十四代将軍に就任した徳川家茂の跡を継いだ。茂承の婿養子になった頼倫は徳川宗家 家達の弟で、南葵文庫を創設した。その子頼貞は東京飯倉に日本初のパイプオルガン付きの本格的コンサートホール南葵楽堂を設立した。また、楽譜、音楽文献、古楽器類の収集家としても著名。
一粒社ヴォーリズ建築事務所 建築作品>厚生>徳川音楽堂(南葵楽堂)
旧東京音楽学校奏楽堂
徳川 茂承(もちつぐ)【1844~1906】
夫人:伏見宮邦家親王 第八女子 則子。溝口直溥の養女(本多忠穆の三女)廣子。
徳川 頼倫(よりみち)【1872~1925】
田安慶頼の六男。
夫人:徳川茂承の長女 久子。
徳川 頼貞(よりさだ)【1892~1954】
徳川頼倫の長男。
4. 水戸徳川家
明治維新後、清水家当主の昭武がパリから帰国して家督相続した。その後、甥の篤敬に家督を譲り、篤敬は1884年に侯爵。その子圀順のときに光圀の生誕300年祭が行われ、「大日本史」編纂の勲により公爵。圀順は伝来の大名道具や古文書類を寄贈して財団法人水府明徳会(現公益財団法人 徳川ミュージアム)を設立した。
徳川ミュージアム
徳川 昭武(あきたけ)【1853~1910】
夫人:中院通富の四女 盛子。
徳川 篤敬(あつよし)【1855~1898】
夫人:松平頼聡の長女 總子(旧高松藩主家)。
徳川 圀順(くにゆき)【1886~1969】
徳川篤敬の長男。
夫人:徳川慶喜の十一女 英子。石野基道の四女 彰子。
5. 松戸徳川家(水戸家分家)
1991年に「戸定が丘歴史公園」として整備され一般公開され、2006年に戸定邸は国の重要文化財に指定され、2015年に戸定邸庭園は国の名勝に指定された。また、園内には徳川伝来品を展示する戸定歴史館がある。
松戸市戸定歴史館
徳川 武定(たけさだ)【1888~1957】
徳川昭武の二男。
海軍技術研究所にはいり、主に潜水艦の設計にたずさわった。1942年に海軍技術中将に昇進して同研究所長となった。
参考文献:
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本人名大辞典(講談社)
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