こんにちは、勘矢です。
今回は、前々回書いた旗本 山口氏(旗本 山口氏~幕末四賢候 伊達宗城の実家の一族~ - 探検!日本の歴史)の分家山口采女家について調べたことをまとめました。
1. 旗本 山口采女家
山口直治が甲府藩家老になる以前に領していた知行は長男 直矩が相続しました。1668年に直矩を甲府藩家老の後継にするため、直矩の知行は弟の直重が知行することになりました。その後、加増された二千石となり、京都町奉行をつとめました。
その子直倫は御使番や仙洞附をつとめました。幕末の直邦は講武所砲術師範役をつとめました。
(1)旗本:山口釆女家
(寛政年間までの当主)
初代 山口 直重(なおしげ)【1650~1727】
山口直治の二男、母は浅野氏重の娘。
1668年(19)に兄 直矩の領知 七百石及び三百俵を賜り、寄合に列しました。1674年(25)に御書院番となり、1692年(43)に御使番に転じました。1695年(46)に御目付に移り、1697年(48)に蔵米を知行地に改められました。
1698年(49)に禁裏附に進み、千石を加えられ、合わせて二千石を知行しました。1713年(64)に京都町奉行に移り、1721年(72)に辞職しました。享年78。
妻は旗本 井戸幸弘の娘。
二代 山口 直倫(なおとも)【1689~1769】
山口直重の二男、母は井戸幸弘の娘。
1727年に39歳で相続し、小普請となりました。翌年、西ノ丸御書院番に列し、1740年(52)に御使番に進みました。1742年(54)に越後国高田城を榊原政永が賜るとき、現地に赴き、城引渡しの役をつとめました。
妻は旗本 高井清方の娘、後妻は旗本 井戸弘宰の娘(母の姪にあたる)。
山口 直救(なおひら)【1719~1749】
山口直倫の長男、母は井戸弘宰の娘。
1739年(21)に御小姓組の番士に列し、翌年西ノ丸の御小納戸に移りました。1745年(27)に本丸つとめとなり、1748年(30)に辞職し、寄合に列しました。享年31。
妻は旗本 鈴木直秀の娘。
三代 山口 直由(なおよし)【1742~?】
山口直倫の長男 山口直救の長男、母は鈴木直秀の娘。
1764年に23歳で祖父の跡を相続しました。1767年(26)に御小姓組に列し、1774年(33)に辞職しました。1775年に34歳で隠居しました。
妻は旗本 徳山頼意の養女(徳山貞明の娘、のちに離婚)。
四代 山口 直武(なおたけ)【1759~?】
山口直由の長男、母は徳山頼意の養女。房之助、孫次郎。
1775年に17歳で相続しました。
妻は旗本 斎藤三安の娘と婚約しましたが、嫁がずに離縁しました。
(2)寛政譜以降の山口采女家について
直武以降の当主として、寛政譜以降 旗本百科事典によると山口采女、山口直邦が確認でます。
また、『近世こもんじょ館』のウェブページ「南部を名乗る諸家 7 七戸藩主南部家 麹町家」で、信喜の子に「信彊 秀之助 千之助」「後山口釆女 寄合三千石山口延次郎直庸養子」とありました。
直庸は直武の弟直膺のことではないかと思われます。「膺」と「庸」は違う字であるが、似ている字なので間違えた可能性があると思います。
山口 直膺(なおたか)
山口直由の二男。延次郎。
山口 采女【?~1844】
南部信喜の子。はじめ信彊、山口家に養子入りして直温と名乗り、のちに直好と改めました。
1837年に書院番より使番となり、1841年に西ノ丸先手弓頭となりました。
山口 直邦【?~?】
※旗本家の家名は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
御旗本物語ー日本史の意外な証言者たちー(谷 有二 著/未来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
寛政譜以降 旗本百科事典 第3巻、第5巻(東洋書林)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。