こんにちは、勘矢です。
1. 志摩鳥羽藩の内藤家とは
志摩鳥羽藩の内藤家は、内藤清長の弟忠郷の孫忠重が家祖となります。
忠重は、1610年に二代将軍徳川秀忠の嫡男家光の傅役となり、1633年に志摩鳥羽三万五千石を賜りました。
鳥羽藩には3つの分家があり、二代忠政の弟忠吉と三代忠勝の弟忠知はそれぞれ兄から領地を分けられて分家しました。二代忠政の次弟忠清は幕臣として取り立てられました。
2. 志摩鳥羽藩主一覧
初代 内藤 忠重(ただしげ)【1586~1653】
内藤忠政の二男。
1599年(14)に徳川秀忠に仕え、翌年会津の上杉景勝征伐、上田の真田昌幸攻めに参加しました。その後、相模国内で三百石を与えられました。1610年(25)に徳川家光の傅役となり、1615年(30)の大坂夏の陣に出陣しました。
1622年(37)に下野・武蔵国内で千石を加増され、翌年に常陸国内で三千七百石を加増されて五千石となり、御小姓組の番頭となりました。1625年(40)に常陸国内で五千石を加えられて一万石となり、御書院番の番頭に任ぜられました。翌年に上洛に供奉し、のちに一万石を加増され、奉行職に列しました。
「日本史辞典・日本史総覧」では1623年~1653年の間に老中であったと記載がありますが、「お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道」では、1624年頃から年寄(老中)となり、1633年に年寄から外されたとあります。
1633年(48)に一万五千石を加増されて三万五千石となり、志摩鳥羽城を賜りました。1640年(55)に常陸宍戸藩主 秋田俊季に預けれていた弟内藤正吉を召し預けられました。正吉は駿河大納言忠長に仕えて、忠長が除封されたときに秋田氏に召し預けられていました。1645年(60)将軍家光に亀松が生誕したとき、蟇目(ひきめ)の役を勤めました。享年68。
二代 内藤 忠政(ただまさ)【1617~1673】
内藤忠重の長男、母は内藤正長の娘。
内藤 忠次(ただつぐ)【1645~1704】
内藤忠政の長男、母は板倉重宗の娘。
1656年(12)に四代将軍徳川家綱に拝謁しました。のちに病により嫡子を辞退しました。享年60。
三代 内藤 忠勝(ただかつ)【1654~1680】
内藤忠政の二男、母は板倉重宗の娘。
兄忠次が病弱のために嫡子となりました。1673年に20歳で志摩鳥羽藩を相続しました。弟忠知に二千石を分け与えました。
1680年(27)に芝増上寺で行われた四代将軍家綱の法要の際に、同族陸奥湯長谷藩主 遠山(内藤)政亮(56)<一万石>と丹波宮津藩主永井尚長(27)<七万三千六百石余>とともに増上寺の勤番を命ぜられました。このとき、老中奉書を見せない尚長に激怒し、尚長を殺害する刃傷事件を起こしました。政亮が忠勝を背後から抱き押え、刀を奪って御目付に引き渡しました。その後、忠勝は芝青松寺において切腹しました。享年27。鳥羽藩は除封となり、鳥羽内藤家は断絶しました。
正室は老中 土井利房の養女(下総大輪藩主 土井利直の娘)、忠勝没後は実家に戻りました。
3. 志摩鳥羽藩の内藤一族
(1)旗本:内藤伊織家
(寛政年間までの当主 )
初代 内藤 忠知(ただとも)【1661~1717】
内藤忠政の三男。
1673年(13)に父の遺領のうち二千石を兄より分け与えられ、寄合に列しました。1680年(20)に采地を三河国内に移されました。1701年(41)に甥浅野長矩の事で、遠慮の処分となりました。享年57。
妻は内藤正興の娘。
二代 内藤 忠英(ただふさ)【1703~1777】
内藤忠知の長男。
三代 内藤 忠予(ただかね)【1729~?】
安部信興の三男、母は八木高補の娘。忠予の曽祖母が初代忠知の姉にあたります。
1753年(25)以降、御小納戸や御小姓組をつとめました。1760年に32歳で相続しました。その後、西の丸につとめて御小納戸や御小姓をつとめました。1763年(35)に御使番にうつりました。1783年に55歳で隠居しました。
妻は内藤忠英の娘。
四代 内藤 忠温(ただあつ)【1758~?】
1783年に26歳で相続しました。1786年(29)に御小姓組の番士に列しました。
妻は旗本 村瀬俊清の娘(離縁)、後妻は旗本 杉浦好政の娘。
(2)旗本:内藤近江守家
(寛政年間までの当主 )
初代 内藤 忠吉(ただよし)【1619~1665】
1645年(27)に父忠重が家光の子亀松が生誕したとき、蟇目(ひきめ)の役を勤めたときに矢取を勤めました。
1653年(35)に父の遺領志摩国内で新墾田三千石を分け与えられて寄合に列しました。享年47。
内藤 宮千代【1665~1667】
内藤忠吉の子、母は三宅康盛の娘。
1666年(2)に兄より父の遺領二千石を分け与えられましたが、翌年早世しました。享年3。
二代 内藤 忠広(ただひろ)【1653~1704】
1666年(14)に次兄忠吉の養子となり千石を知行し、二千石を弟の宮千代に分け与えました。同年、御書院番に列し、その後、進物役をつとめました。1681年(29)に大関増公、中根正武とともに北陸諸国を巡検しました。享年52。
妻は旗本 石谷武清の娘。
三代 内藤 忠昆(ただやす)【1648~1709】
旗本 松平定之の四男、母は松平隠岐守家臣 奥平貞由の娘。
1695年(48)に五代将軍に拝謁しました。1704年に57歳で相続しました。翌年御小姓組に列しました。1709年(62)に失心して自殺しました。享年62。
妻は甲府藩家臣 保々貞晴の娘。
四代 内藤 忠如(ただゆき)【1698~1749】
1709年に12歳で相続しました。1719年(22)に御小姓組に列しました。1745年(48)に西の丸に勤士しました。享年52。
五代 内藤 忠方【1722~1774】
内藤忠如の三男。
1749年に28歳で相続しました。1752年(31)に御書院番の番士となりました。翌年故ありて逼塞となり、その後ゆるされました。享年53。
妻は旗本 本郷知泰の娘。
六代 内藤 忠賢(ただかた)【1736~1776】
内藤忠如の四男。
1774年に39歳で相続しました。翌年、御小姓組に列しました。享年41。
妻は旗本 松平(形原)氏盛の娘。
七代 内藤 忠議(ただよし)【1741~1790】
内藤忠如の五男。
1776年に36歳で相続しました。同年、御書院番となりました。享年50。
妻は清水義永の娘。
八代 内藤 忠孝(ただたか)【1769~?】
旗本 本郷泰之の三男、母は石河貞貴の娘。
1782年に御小納戸、御小姓になりました。1790年に22歳で相続しました。
はじめ忠儀の娘と婚約するも亡くなりました。妻は旗本 谷衛明の娘。
忠孝の祖母と五代忠方の妻が姉妹の関係にありました。
(3)旗本:内藤十次郎家
初代 内藤 忠清(ただきよ)【1621~1690】
1641年 (21)に徳川家綱に附属となり御小姓となりました。1650年(30)に御小姓組の番頭に転じ、廩米千俵を賜りました。翌年さらに千俵を加えられました。1653年(33)に久世広之、牧野親成、土屋数直らとともに交代で宿直を勤めることを命ぜられました。また、御使をうけたまわり日光山に赴いたりしました。1656年(36)に二千俵を賜り、翌年さらに千俵を加えられ、廩米を改めて常陸国内で五千石を知行しました。1661年に故ありて逼塞となり、その後ゆるされて寄合になりました。享年70。
妻は大名 北条氏重の娘。
内藤 忠通(ただみち)【1650~1689】
内藤忠清の長男。
1666年(17)に四代将軍徳川家綱にに拝謁しました。父に先立って没しました。享年40。
妻は大和新庄藩主 桑山一玄の娘。
二代 内藤 忠種(ただたね)【1672~1718】
内藤忠通の長男。
1690年に19歳で祖父の跡を相続しました。1698年(27)に采地を近江国内に移されました。享年47。
妻は播磨林田藩主建部政宇の娘。
建部家についてはこちらをご覧ください。
三代 内藤 休明(やすあきら)【1701~1731】
内藤忠種の長男、母は建部政宇の娘。
1718年に18歳で相続しました。享年31。
妻は交代寄合 伊東祐連の娘。
四代 内藤 忠義(ただよし)【1706~1750】
一族 内藤忠昆の二男、母は保々貞晴の娘。
1731年に26歳で相続しました。1734年(29)より火事場見廻りを勤め、1736年(31)に定火消となりました。1744年(39)に小普請組の支配に転じ、翌年に御小姓組の番頭に進みました。享年45。
妻は旗本 戸田光輝の娘。
五代 内藤 忠見(ただちか)【1739~?】
内藤忠義の長男。
1750年に12歳で相続しました。1776年(38)に御持弓の頭となりました。同年に十代将軍徳川家治の日光社参に従いました。その後、百人組の頭に転じました。1780年(42)に御小姓組の番頭に進みました。1785年に47歳で隠居しました。このとき養老の料として廩米三百俵を賜りました。
六代 内藤 忠高(ただたか)【1761~?】
内藤忠見の長男。
1777年(17)に西の丸の御小姓組となりました。1779年(19)に中奥の御小姓に転じました。1785年に25歳で相続しました。
妻は旗本 小堀政弘の娘。
七代 内藤 忠英(ただふさ)【1786~?】
内藤忠高の二男、母は小堀政弘の娘。
1794年(9)に十一代将軍 徳川家斉に拝謁しました。同年、将軍世子家慶が山王社に詣でるときに騎馬にて供奉しました。1803年(18)に相続しました。
八代 内藤 忠恒
1803年に相続しました。
九代 内藤 忠行
1831年に相続しました。
十代 内藤 忠谷
1849年に相続しました。
※旗本各家の家名は、徳川旗本八万騎人物系譜総覧を基に採用しました。これに記載がない家は、寛政譜に記載されている最後の当主の通称を採用しました。
参考文献:
江戸時代全大名家事典(東京堂出版)
江戸大名家血族事典(新人物往来社)
名門・名家大辞典(東京堂出版)
日本名字家系事典(東京堂出版)
徳川旗本八万騎人物系譜総覧(新人物往来社)
日本史総覧 コンパクト版(新人物往来社)
最新版 角川新版 日本史辞典(角川学術出版)
それでは、今日はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございます。